おくのほそ道ひとり旅番外編「芭蕉江戸滞在記」 ①関口芭蕉庵編
慶長9年(1603)五街道の基点となる日本橋が創架された。この日本橋北詰東側から、江戸橋北詰西側までが日本橋魚河岸である。江戸時代有数の地誌「江戸名所図会」によると、「本船町、小田原町、按針町等の間、悉く鮮魚のいちくらなり。遠近の浦々より海陸のけぢめもなく 鱗魚をここに運送して、日夜に市を立て甚賑へり」とある。寛永21年(1644)伊賀上野に次男として生まれた芭蕉は、幼名金作、長じて宗房と名乗り、父が13歳の時に亡くなったため、自活の道を探り、藤堂藩侍大将の屋敷に奉公する。仕えた嫡子良忠は俳諧を好み、蝉吟の俳号をもっていた。そうした影響もあって、21歳となった寛文4年(1664)、俳諧撰集に宗房号で発句二句を採られたのが、芭蕉の俳壇デビューとなる。寛文12年(1672)春、29歳となった芭蕉は仕官していた伊賀上野の藤堂家を辞し、発句合の「貝おほい」を作り上野天満宮に奉納、これを一つの契機として、俳諧師として自立を目指し「雲とへだつ 友かや雁の 生き別れ」と詠んで、江戸へ下向した。江戸では当初、日本橋本船町の名主小沢太郎兵衛こと卜尺の、日本橋小田原町にある卜尺店(たな)の借家で生活を始めた。暫くして卜尺の紹介で、同じ小田原町で幕府御用達の魚問屋を営む鯉屋市兵衛こと杉山杉風宅、正確には父親の仙風の家に移り住んだ。杉風は父の影響もあってか俳諧に親しんでいたので、芭蕉と自然と気脈が通じ、卜尺と共に芭蕉の生計上のスポンサー的な立場になっていった。と同時に蕉風開拓の功労者にもなっていった。また一説には、当初芭蕉が伊賀上野から江戸へ草鞋を脱いだ先は、隅田川左岸、田園地帯であった桃青寺(墨田区東駒形3-15)だという。桃青寺は芭蕉山と号し、臨済宗京都妙心寺の末寺で寛永3年(1626)の創建である。
芭蕉(桃青)は卜尺や杉風の勧めもあり、初心者向けの指導にあたり、次第に桃青の名が広まっていった。延宝2~3年頃(1674~75)宝井其角が入門、続いて服部嵐雪が入門した。其角は日本橋堀江町の生まれで、父に習って医術を志し、他にも儒学、詩学、易学、書道、絵画と当時の最高レベルの教育を身につけ、14歳で芭蕉の門弟となった。後年の元禄5年(1692)桃の節句の際、芭蕉は其角と嵐雪を迎え「草庵に桃桜あり 門人に其角、嵐雪」と前書きを付して「両の手に 桃と桜や 草の餅」と2人の愛弟子をもった喜びを詠んでいる。話は戻り、延宝3年5月、大坂の西山宗因を招き本所の大徳院で百韻連句を興業、芭蕉も桃青の号で出席した。同6年、35歳になった芭蕉は宗匠として独立、万句興業を催して江戸俳諧にお披露目、日本橋小田原町に宗匠の看板を揚げた。翌延宝7年(1679)正月、宗匠としての心意気を詠みあげた。「発句也 松尾桃青 宿の春」。現在も日本橋通町筋(中央通り)を昭和通り側に入ったつくだ煮店先に、この句碑が置かれている。江戸経済の中心地日本橋に看板を挙げた芭蕉であったが、まだまだ新進であった。まだ、自己の点料(添削して貰う報酬)のみでは独立した生計を営むことは不可能であった。芭蕉の相談を受けた卜尺は、その頃神田上水の惣ざらい(大掃除)など「神田上水」改修工事が多かったため、この水役を紹介した。桃青はここで働きながら休みの日には日本橋に帰り、俳諧の道に精進していった。
天正18年(1590)江戸に入府した家康は、当初、江戸城内堀の千鳥ヶ淵や牛ヶ窪、溜池などの水を飲料水として充てていたが、人口の増加と水質の悪化を考慮、大久保主水に上水道の整備を命令した。主水は武蔵野の井之頭の池を水源として、多摩郡、豊嶋郡など16ヶ村を流れ、善福寺川、妙正寺川の水を取り込み、目白台の下、小石川関口大洗堰で水位を上げて江戸市中に配水した。ここまで5里の開口上水路である。この先神田上水は水戸殿の上屋敷を潜り、水道橋を渡って主に日本橋川の北部、日本橋、神田地域に配水された。関口(大滝橋)は江戸の海の潮の影響を受けないギリギリの場所で、ここに飲料水(上水)の取水口である大洗堰を造り、神田上水の流れはここで二分され、現在の江戸川橋辺りまで、神田上水(飲料水)と江戸川(余剰水)が並行して流れていた。右岸に位置していたのが「関口水道町」この町は「小日向水道町」と共に、大洗堰の「差蓋揚卸」の役を勤めていた。後に関口村に水番人が置かれる様になる。神田川左岸目白台傾斜地は、鎌倉時代から椿の名所とて知られ「椿山」と呼ばれていた。江戸時代になって上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷となり、維新後山縣有朋の邸宅となり、現在は椿山荘となっている。目白台の上から神田上水に降る坂を「胸突坂」という。この坂の東側、駒繋橋(駒塚橋)の北詰に、芭蕉が住んでいた水小屋があった。この橋はその昔旅人がここの老松によく馬をつないでいた事からこの名がある。広重は「名所江戸百景」57景で、「せき口上水端はせを庵椿やま」と題し、画面右手の小高い丘に建っている「深川芭蕉庵」に対する「関口芭蕉庵」と、青い水の流れの神田上水を描いている。その奥は、桃青が近江国琵琶湖南岸瀬田の風景と似ていると賞した、早稲田の田圃である。
「瀬田」は勢多、勢田とも書き、瀬戸が訛った言葉で、狭小な海峡を示している。次第に海のあるなしに関わらずせまい谷地も瀬戸、勢多と呼ぶようなった。世田谷区の瀬田の地名もその例だと考えられる。近江の国瀬田は、東海道、東山道(中山道)から京都へ向かうか、琵琶湖を渡るか南北に迂回しない限り、瀬田大橋を渡る必要があった。交通の要衝であると同時に、京都防衛の要であった。古来より「唐橋を制する者は天下を制する」と云われ、何度も焼かれ、何度も架け替えられてきた。日本書紀などにも記されているように、水陸交通の要衝であり「壬申の乱」「承久の乱」「本能寺の変」「大坂夏の陣」などの合戦の舞台となった所である。芭蕉は生涯を通して、この近江国府が置かれた瀬田の風景をこよなく愛したと云われている。芭蕉庵からの早稲田の田園風景を愛した桃青は「五月雨に 隠れぬものよ 瀬田の橋」と詠んだ。その短冊は芭蕉50回忌の寛保3年(1743)に、記念として芭蕉庵に埋められた。小石川区(文京区の全身)史によると、「寛延3年(1750)旧8月12日、その裏面に祖翁(芭蕉)瀬田のはしの吟詠を以って、是を汲みてさみだれ塚と称す」記されている。目白台の中腹の水小屋「龍隠庵」=芭蕉庵があり、神田上水の仕事をしていた桃青はここで生活をしていた。その下方に「芭蕉翁之墓夕可庵 馬光書」と刻まれた石碑「五月雨塚」がある。寛延3年(1750)「五月雨に」の句の真筆を、宗端や馬光の門人たちが遺骨代りに埋めて「五月雨塚」としたものである。延宝8年(1662)の冬、桃青は日本橋の住居を引き払い、深川に移り住んだ。俳諧の自立性を高め、自然に倣う中で安らぎを得ようとした。門下の李下から芭蕉の株を送られた事に因み、深川の庵を「芭蕉庵」俳号をこれまでの桃青から「芭蕉」に改め、精力的な俳諧活動を展開していくことになる。次回は「芭蕉、深川編」諸々の紀行文から集大成、おくのほそ道につながっていきます。乞う御期待。
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