「おくのほそ道ひとり旅」⑮最終章 敦賀・大垣

 18きっぷでゆく歴史浪漫「おくのほそ道ひとり旅」もいよいよ最終章。木の芽峠から敦賀へ、結びの地・大垣に入る旅となる。北陸本線を南下、鯖江の城下町を過ぎるといよいよ「親不知」と並ぶ北国街道最大の難所「木の芽峠」にぶつかる。木の目峠、木辺峠とも表記、古くは新田義貞、信長も秀吉も、今回の主人公芭蕉もこの峠を越えた。この木の芽峠の下を通過する、JR南今庄から敦賀までの北陸トンネルは1962年開通、全長13,8㌔、開通当時は日本最長、世界でも5番目の長さを誇った。因みに、福井県の天気予報はこの峠=木嶺を境に風向き、天候が大きく変わる。福井市は嶺北地方、敦賀市は嶺南地方、この嶺とは木の芽峠を指す。現在では、この峠を越すハイキングコースも設けられ、約15㌔のコースは新緑の時期にはもってこいのコースである。

 鶯の関を過ぎて、湯尾峠を超えれば燧ケ城、かえる山に初雁を聞て、十四日の夕暮、つるがの津に宿を求む。その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにや といえば、越路のならひ、猶明夜の陰晴はかり難しと。十五日、亭主の詞にたがわず雨降る。「名月や 北国日和 定めなき」芭蕉は中秋の名月を福井ではなく、歌枕でもある敦賀で見たかった。芭蕉のように風流人に取って、中秋の名月を愛でることは、大切な行事のひとつである。芭蕉は前年の名月を、江戸への帰途、名古屋から木曽路を廻って、姥捨山や信州更科の里で見ている。更にその前の年は、曽良と宗波の3人連れで、常陸の国鹿島へ出かけた。そのまた前の年には、隅田川に舟を浮かべ名月を楽しんだ。「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」その年芭蕉庵で詠んだ句である。

 8月14日夕刻、芭蕉一行は敦賀に着く。敦賀は三方を山に囲まれ、敦賀湾に面した湊町である。西廻り航路や北前船の寄港地として、リアス式海岸をもち、急激に水深が下がる自然の良港である。また、大陸交通の要地として、第2次世界大戦前までは、ウラジオストックや朝鮮との間に定期航路があった。また、ロンドンとイスタンブールを結んでいた「オリエント急行」のように、「欧亜国際連絡列車」の日本側玄関として、外国製の地球儀には、日本側の数少ない掲載都市となっていた。また、敦賀という町は、古代より畿内と北陸道を結ぶ北国街道である、西近江路(鯖街道、若狭街道、敦賀街道ともいう)、木の芽街道、丹波街道が通リ、琵琶湖の北側に位置する。琵琶湖北岸の余呉辺りから市街地まで約5㌔、江戸時代は小浜藩がおかれていた。

 戦国時代、信長は当時物流の主役を担っていた水運に目を付け、畿内の湊を支配することを狙った。湊を支配することは、そのまま物流を支配することにつながった。湊を抑えれば、津料(港湾利用税)や関銭(関税)を徴収することが出来る。加えて海外からの鉱物、特に鉄砲に使用する鉛や硝石などを手に入れることが出来た。信長は、尾張の津島や熱田を支配していた経験からこのことを良く知っていた。永禄11年(1568)上洛した信長は、琵琶湖水運の拠点大津と、南蛮貿易の拠点、堺に代官をおき、支配化においた、次の狙いは、日本海水運の拠点敦賀である。この時代、越前三国湊は多くの明国の船が来航していた。この利権を握っていた朝倉義景の一乗谷城下は、九頭竜川の水運によって三国湊と繋がっていた。明国からの物資は三国湊から敦賀へ運ばれ、琵琶湖を経て、京や大坂に売り捌かれ、大きな利益をもたらした。朝倉氏が越前に山奥一乗谷城で繁栄をもたらし、京文化を謳歌した根拠はここにある。信長は「天下静謐」と称して、畿内や近江の大名たちに上洛を求めた。家康、長政らがこれに応じたが、義景はこれに応じなかった。上洛すれば、敦賀、三国の利権が奪われるからである。永禄13年(1570)=元亀元年、信長は諸大名たちに、朝倉討伐を命じた。その総勢は約7万8千、信長は自ら3万の軍勢を率いて4月2日京都を出発、4月25日手筒山城、次いで敦賀口における金ヶ崎城を攻略、一挙に一乗谷まで攻め込む態勢を整えた。そこへ妹・市の夫浅井長政が、反旗を翻して朝倉勢に加勢、越前と北近江からの挟撃となった。晴天の霹靂である。4月28日、秀吉、家康を殿に残して、琵琶湖西岸(湖西線)、朽木谷を越えて京へ逃げ帰った。これが世にいう「金ヶ崎崩れ(撤退)」である。

 <大垣>露通もこのみなと迄出むかひて、ミのの国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。したしき人々日夜とふらいひて、蘇生のものに(死んで蘇みがえった人にでも会うように)あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。この間の逗留期間は14日間であった。旅のものうさも、いまだやまざるに(長旅の疲れがまだ残っているが)、長月(9月)六日になれば、伊勢の迁宮おがまんと、出船。曽良の旅日記によると辰尅(たつのこく)≒午前8時頃、本院亭の前から船に乗って、連句を作りながら揖斐川を下り、別れを惜しんだとされる。「蛤の ふたみに別 行秋ぞ」。行秋ぞの句は、今回の「おくのほそ道」の旅で、江戸を出立つの折に、千住で詠んだ「行春や 鳥啼き魚の 目ハ泪」の行春に呼応したものである。大垣出立の9月6日は太陽暦では10月8日、秋が深まりつつあった。

 大垣城は慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」開戦時には、三成の本拠地であったが敗北、江戸時代になって寛永12年(1635)から戸田氏10万石の居城になった。現在の天守閣は昭和34年に再建したものである。大垣の町は掘割が幾重にも大きく囲み、春になるとその掘割沿いの桜が、花筏となって訪れた人たちを和ませてくれる、水の町である。今でも春と秋、「水の都 おおがきたらい舟祭り」が開催される。史蹟おくのほそ道結びの地の標柱は、大垣市船町の水門川沿いの木因宅跡にある。側に蛤の句を刻んだ蛤塚も建っている。対岸は住吉燈台、近くには、おくのほそ道むすびの地記念館がある。館内には、芭蕉に関する資料の他に、深川から大垣までの足跡を、当地の代表的な句を取り入れながら、臨場感溢れるジオラマで紹介されている。残念ながら、18きっぷ愛好家の強い味方であった東京、大垣間の夜行特急「ムーンライトながら」が、長引くコロナ渦で、その運行が廃止となってしまった。

 人生は夢の続きであるという。芭蕉の句に「草いろいろ おのおの花の 手柄なり」という句がある。草や花をを夢に置き換えて解釈してみると面白い。日本全国に芭蕉の句碑が2千基を超えるという。無いのは、沖縄県だけだという。18きっぷでゆく「芭蕉句碑全国おっかけの旅」も面白そうだ。 チーム江戸版「平成おくのほそ道ひとり旅」完

 


0コメント

  • 1000 / 1000