「おくのほそ道ひとり旅」⑮福井・永平寺
さていよいよ芭蕉がだどった「おくのほそ道」も結びの句、永平寺から、越前福井、敦賀、木の芽峠を越えて、結びの句、美濃大垣の旅となる。「越前の境、吉崎の入江を、舟に棹(さおさし)て、汐越の松を尋ㇴ。「終夜(よもすがら)嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松」西行。この一首にて、数景尽きたり。若、一弁を加ㇽものは、無用の指を立るがごとし」西行を心から尊敬している、芭蕉の究極の言葉である。だがこの一首、蓮如上人が詠んだ作だとの説もある。8月9日 芭蕉主従は一向宗ゆかりの吉崎御坊(福井県あわら市)に入る。延暦寺宗徒に本願寺を焼き討ちされた、浄土真宗中興の祖、第八世蓮如上人は、文明3年(1471)吉崎御坊に道場を開き潜伏、同11年(1479)山科に本願寺を創建した。上人は親鸞の教えを、御文や御文集と呼ばれる平易な手紙にして人々に与えたりして布教、私生活においても、84歳の生涯の中で5度結婚、13男14女を設けている。
「五十丁山に入て、永平寺を礼ス。道元禅師の御寺也。邦機千里避けて、かかる山陰に、跡を残し給ふも、貴き故有とかや」曹洞宗大本山永平寺は、道元禅師によって開かれた座禅修行道場、本尊は釈迦牟尼仏、左右に未来の仏・弥勒菩薩、過去の仏・阿弥陀如来を安置。敷地は約33万㎡、ここに70余の御堂と楼閣が建つ。修行のための七堂伽藍は、回廊によって結ばれ、杉板塀や幾段もの階段は、毎日修行の間に、雲水たちによって磨き上げられ、黒光を放っている。回廊の間には、食事の知らせる木製の魚の形をした「魚鼓」が下がっているのが微笑ましい。因みに、早朝3時半の起床の知らせは「振鈴」、人に優しい気配りがなされている。ここ永平寺へは、JR福井から直行バス30分、若しくは同駅から「えちぜん鉄道勝山永平寺線」で、永平寺口で下車、ここからバスに乗り換え山門に入る。山門には「永平寺」と刻まれた大きな石柱と,樹齢500年を超えた杉の古木が旅人を迎えてくれる。中でも大きな山門は、雲水たちが正式に入山する時と、無事修行を終えて、下山する時にだけ許されて通る山門である。座禅に興味をもち、精進料理も食べてみたい、こうした生活も体験したいという方には、3泊4日の体験修行も受け付けている。
「福井ハ三里計なれば、夕飯したためて出るに、たそかれの道たどたどし」。たそかれは漢字に変換すると「黄昏」。時刻にすれば夕陽が落ちるか、落ちないかの時間帯。英語版では twilight time。江戸時代、太陽光に頼っていたこの時間帯は、相手が誰だか彼だか見極めが難しい「誰彼時」。田舎では陽が暮れると、鼻をつままれても分からない程の暗闇となった。夕飯後、知人を訪ねた芭蕉翁の足取りはたどたどしかった。越前福井・北ノ庄は、家康次男結城秀康が藩祖となった城下町。戦国時代は、信長家臣筆頭柴田勝家の居城・北ノ庄。「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に破れ、妻お市と共に自害、幼い浅井三姉妹とっては2度目の落城、母と死に別れの場となった。現在でも、城址であった福井県庁裏側には、福井の地名の由来となった、二間四方余りの古井戸がある。また、越前福井は恐竜の町としても知られている。JR福井始発の「越美北線」の旧称は「九頭竜線」走行距離55㎞。この線の終点は九頭竜湖駅、駅前広場には数頭の恐竜が、大きな口を開けて吠えながら待っている。大陸と分断された際、取り残された彼らの化石が、今でも多く発掘されている。正に越前福井は恐竜王国なのである。
越美北線は俗にいう「盲腸線」、この地は山あいながら京に近かったせいか、早くから開けていた。戦国時代、信長と戦った朝倉義景の居城は「一乗谷」。駅からのレンタチャリで城跡を訪れると、城跡の土塁と共に、復元された庶民の住居、その生活の遺跡などを、当時の衣装をまとった、ボランテアの方々が丁寧に解説してくれる。本数の少ない電車をなお先に足を伸ばすと「越前大野」に着く。ここに、備中松山城と同様に天空の城「越前大野城」がある。早春の頃、地表の大気が暖められ、上空の冷気とぶつかり合い霧が発生する。その霧が城塁辺りに立ち込め、あたかも城が雲の上に浮かんでいるように見える。この情景は様々な条件が合わないと遭遇出来ない。昭和の旅人は直ぐ諦めて、可愛らしい城を散策して戻ることにする。この町も自然に恵まれ、朝市などで朝採れのトマトなどを、掘割りの水で冷やして食べさせてくれる。2017夏当時、凸凹中玉1個¥100也。トマトも旨かったが駅構内の蕎麦も旨かった。蕎麦の殻も一緒にこねた、そば粉九割ほどの玉をサラッと茹で丼に入たら、裏山で採れた山菜をたっぷりと載せ、そこへ秘伝?のだし汁をかける。地元商品名「越前ぶっかけ蕎麦」山葵をかき混ぜながらガツガツと食べる。越前のお天道様で火照った空腹に、ザクザクと音を立てて入っていく田舎そばは、正に逸品であった。(つづく)
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