「おくのほそ道ひとり旅」 ⑭金沢・山中温泉

 卯の花山、くりからが谷をこえて、金沢は、七月中の五日也。源平合戦の序盤戦「倶利伽羅峠の合戦」は、平安末期の寿永2年(1183)、越中と加賀の国境、砺波山倶利伽羅峠で戦われた。以仁王の呼びかけに応じた木曽義仲と源頼朝が挙兵した。この二人従兄弟同士の関係にあるが、共に協力して対平氏に、戦いを望むという事は1度もなかった。大東亜戦争における帝国陸軍と海軍の関係に似ている。日本を廃墟にまで落とし込め、一般国民まで巻き込んだ、あの悲惨な長い戦いの中で、共同作戦は僅かに4回だけだという。平維盛手持ち兵力7万に対し2万の義仲、まともにぶつかっては勝てない。そこで義仲考えたのが、平氏の軍勢を山頂に導き出し、そこへ奇襲をかけようとする作戦である。夜半、野営する平氏の陣営に、火牛500頭を追い立てた。京育ちの公達たちは慌てて敗走、峠の下の「地獄谷」に落ちていった。今でもここを覗くとおぞましい。義仲はこの後、京へ凱旋したが、都人からその粗暴ぶりが疎まれ、義経軍に追われ、「宇治川の戦い」で最期をとげた。芭蕉は何故かこの義仲や義経など、悲運の武将に思い入れが強い。倶利伽羅峠へは、「北陸本線」石動(いするぎ)駅下車、ふるさと歩道を約5,4㌔歩くと、成田山や大山と共に日本三大不動といわれる御不動様の社にでる。ここが標高277mの古戦場跡である。芭蕉も歩いたであろうこの道を、帰りはひとつ先の倶利伽羅駅へ向かう。「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」 金沢はもうすぐ先である。

 陰暦7月15日(陽暦8月29日)金沢に入った。予定より約1ヶ月半遅れていた。ここで芭蕉は、弟子一笑の訃報を聞く。去年の冬、早世したという。「塚もうごけ 我が泣声は 秋の風」。一方、曽良は暑さとと疲れのためか、体調を崩して宿で休養に努めることになった。なかなか病が快方に向かわないので、芭蕉に迷惑がかかるのを恐れ、伊勢の長嶋に縁をたよって行くことにした。北枝が曽良の代わりを申し出てくれた。曽良も残念だったが、芭蕉も心細かった。「ゆきゆきて たふれ伏すとも 萩の原」曽良。「けふよりは 書付消さん 笠の露」芭蕉。書付消さんは、笠の裏の「同行二人」の文字を消そうという意味である。この唱和には、長い間旅を共にして、歓びや苦労を分かち合った二人の哀切が滲んでいる。曽良の病の事と、金沢は加賀百万石の城下町であるだけに弟子たちも多く、そのためか金沢に八泊している。晩秋から冬にかけて雪を伴って、霰や雹が降るどんよりとした日が続く加賀(加州、賀州)の国、金沢は放射冷却がないため、冬でもそんなに気温は下がらないが、湿度は高い。これ気候を利用して、伝統工芸の漆塗りや金箔が盛んな町である。東西に犀川と浅野川が流れ、金沢城址、兼六園、武家屋敷跡、近江市場、ひがし茶屋街と、見処満載の城下町である。天正8年(1580)一向一揆を制圧した信長は、この地を前田,丹羽の両氏の領有とした。続く秀吉も前田利家に加賀の統治を委せた。表高石高102万5千石、内高120万石以上と云われた。江戸幕府徳川家は、家康以降、外様に限らず各大名家を取り潰した結果天領約800万石、加賀前田藩は外様ながら、臣下で最高の石高を領した。

 途中唫「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」7月24日、小松より那谷寺にむかう。芭蕉が立ち寄らなかった「安宅関」は、守護大名富樫が設けた関所、小松からバス30分ほどの、日本海を望む松林の中にある。都落ちした義経が、弁慶の機転によって救われた関所である。天保11年(1840)市川團十郎が、能や謡曲を素材にして、義経伝説北国落を舞台化初演した、歌舞伎十八番のひとつ「勧進帳」の舞台である。この演目、登場人物が少なく、筋立てが解りやすく、しかも上演時間が短いため、気の短い江戸っ子たちに受けた。座元もこれを充分に承知、他の演目で入りの悪い日が続くと、即、これか「仮名手本忠臣蔵」に切り替えた。口の悪い彼らは「またかの関か」と揶揄した。この安宅関、札幌の時計台と高知のはりまや橋と並んで、肩すかしの名所となっている。芭蕉翁も人が悪い、知ってて行かなかったかもしれない。

 「山中の温泉(いでゆ)にゆく歩道を歩いて、白根が嶽、跡に見なしてあゆむ。左の山際に観音堂有。大慈大悲の像を安置し給いて「那谷」と名付給と也。那智、谷組の二字をわかち侍りしとぞ」「那谷寺(なたでら)」は創建養老元年(717)遣唐使が出発、能登、岩城の国が置かれた時代である。高野山真言宗別格本山で、白山信仰の寺であり、全国観音札所の総納めの寺で、御本尊は洞窟内に祀られている先手観音、一向一揆で荒廃した寺院を再建したのは、前田家三代目利常である。芭蕉は寺名の由来を、那智、谷口としているが、詳しくは西国三十三ヶ所の「那智山青岸渡寺」と「谷汲山花寺」の各一字を取って那谷寺、また別の書見によると、「ナタ」はアイヌ語で「水と契約する」という意味合いから、地名、寺名の転訛したとされている。「石山の 石より白し 秋の風」芭蕉は季節の白秋と岩の色をだぶらせたもであろうか。山門をくぐると苔むした長い参道が続き、境内は芭蕉が詠んだ情景がそのまま残されていた。句に詠まれている石山は、近江琵琶湖南端から流れる瀬田川(宇治川)の畔に建つ、西国十三番目の札所「石山寺」、本尊は意輪観音菩薩。山門をくぐると白い巨石が目に入って来る。この寺、文学作品にも縁が多く、紫式部が「源氏物語」を起筆、他にも枕草子、蜻蛉日記、更級日記などの作品にも登場してくる。芭蕉は近江膳所や瀬田川の風景が好きで、伊賀上野から江戸に出てきて、日本橋人形町魚河岸にある杉風の屋敷に居候をしながら、神田川関口で帖付けのバイトをしていた頃も、関口の辺りに庵(のちの五月雨塚)を結び、関口の北西、早稲田の田圃が瀬田の風景に似ているとして愛でていた。近江石山寺へは、JR「琵琶湖線」石山、若しくは、京阪電鉄石山寺から歩きとなる。

 「温泉に浴す。其功、有馬に次と云。「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」加賀温泉郷のひとつ「山中温泉」は、各駅からバスが出ているが、1番本数の多いのは「北陸本線」加賀温泉からのキャン・バスである。終着バス停広場には歌舞伎小屋、からくり時計などが置かれ、温泉風情が醸し出されており、芭蕉の句から名を借りた「菊の湯」は、硫酸塩素泉の共同風呂である。少し歩くとこおろぎ橋やあやとり橋など、呼び方の面白い名の橋が掛かっている。さて、案内はこれ位にして、木戸銭を払って杉の戸をひけば、真ん中に白濁の湯が大きな湯舟の中に、たんまりと溢れ、それを囲んで周りが洗い場の構成。「よっこらしょ」片足を恐る恐る突っ込んでも中々着底しない。やっと立った状況で湯線が胸の位置である。通常は腰、若しくはへその位置で、浅い風呂では膝で湯舟にしゃがむが、菊の湯ではその必要はなかった。しかし、立ったままでは疲れる。やはり、内側に腰掛みたいのを設置してくれると、ゆるりまったりと浸かれるなぁと、なかなか要望の多いビジターであった。

 さて、何度かに区切って訪れた「おくのほそ道 ひとり旅」も、いよいよ結びの句、大垣となる。芭蕉が福井から永平寺を廻って敦賀、木の芽峠を越えて大垣に入るのは、8月21日。大垣から伊勢神宮に参拝へは9月6日。太陽暦では10月18日。秋も深まっていた。(つづく) 

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