「江戸色彩の研究」小さい秋見つけた・初秋編

 夏の空に浮かんでいた入道雲が姿を消し、澄んだ青空の鰯雲に変わると、江戸っ子たちは秋の訪れを感じる。清少納言は枕草子で「春は曙 秋は夕暮れ」とした。太陽光度の低い朝や夕方は、空気中を通る太陽光線の距離が長くなる。すると、波長の長い光しか地上に届かないため、空の赤や黄色の色彩が強くなって見える。併せて、大気中の湿度が多くなればなるほど、美しい茜色の夕焼けとなる。従って、台風が近づく真近の晴れた日は、絶好の夕焼け小焼け日和となり、茜空、茜雲が楽しめる。本州以南に自生する「茜草」は、その名の通り根が赤い。この根で染められた少し濃い目の紅茶(べにちゃ)色が「茜色」、「藍色」と並んで、人類最古の染料だという。茜色の虫は赤蜻蛉、その多くは「アキアカネ」と呼ばれているトンボである。この赤トンボ、人間様と同じく暑さが大嫌いで、気温が30℃になると死んでしまう事がある。人間で言えば熱中症と同じ症状であろうか?そのため、6~7月に孵化したトンボは群れをなして標高の高い山や高原に移動、やがて里が秋になると再び戻って来る習性がある。童謡「夕焼け小焼けの赤とんぼ」は、日暮里の里に帰ってきたアキアカネを歌った唄である。夕焼けだんだんから茜色の空と赤富士が望まれた。蜻蛉は古くは「秋津(あきつ、あつず)」と呼ばれた。日本書紀には神武天皇が大和国を巡行したとき「大和はまるで蜻蛉が「となめ(交尾したトンボの雄と雌が輪になって飛ぶ姿)」しているように、山々が連なっているようだ」と言ったことから、「秋津洲(あきつしま)」と呼称が生まれたという。武士社会となって、トンボは目玉が大きく眼光が鋭く、害虫を捕食する処から、武士に「勝虫」と呼ばれ、兜や刀の鍔など武具や工芸品に使用されるようになった。

 かって人は太陽で時刻を知り、月で日にちを知り、星を見て自分の位置を測った。こうした自然の移ろいの指標を「二十四節気」「七十二候」という。人の生活暦である。二十四節気は、古代中国の戦国時代、太陰暦と季節のズレを調整するために、太陽の動きと共に1年を24等分に区分、それぞれに季節の特徴を表した名称を付けたことに始まる。日脚が少しずつ短くなって朝夕少しひんやりとした凬が吹くようになると、秋の七草が咲き始める。秋風は色に配すると白、白い風を表す詞は「素凬」、俳聖芭蕉は紫式部が源氏を書き上げた琵琶湖南岸石山寺で「石山の 石より白し 秋の風」と詠んだ。秋の季語に「花野」という言葉がある。一般的には花が咲き乱れている野原をさすが、俳諧用語でいう花野とは、草花が枯れる寸前になお秋草が咲き乱れている野原を指している。江戸近郊では、墨堤、麻布広尾原、代々木野、日暮里、戸田ノ原などが花野の名所であった。万葉歌人山上憶良が秋の七草の歌の筆頭にあげたのは「萩」、初秋の頃から淡い紅紫色の小さな蝶のような可憐な花を咲かせる。萩は秋の七草の中でもとりわけ好まれてきた。立秋より30日後位が1番の見頃、萩が咲けばホトトギスが鳴き止み、萩が散る頃には雁が北国からやって来るといわれた。「紫に 身を投げだすや 萩の露」現代、鑑賞用に植えられている萩の多くは宮城野萩である。また、「雨風の 中に立ちけり 女郎花」と詠まれた、女郎花(オミナエシ)も秋の七草の一つに数えられる。「女郎(ひらつめ)」とは、身分の高い女性や若い女性を指した。女郎花の透明感のある黄色は「中秋の名月」の色であるとされ、旧暦8月15日は中秋の名月、1年の中でも1番空気が澄み月が美しく見えてくるという。月見はこの時期に旬をむかえる芋類の収穫を祝う行事でもあり、里芋をススキなどと供えることから「芋名月」とも呼ばれた。全国月の名所は信州姥捨山と芭蕉も訪れた近江石山寺、江戸っ子たちは旧暦7月26日の夜になると、御利益と行楽を兼ねて、芝高輪や品川の海岸に集まってきた。宵のうちから浜辺に出た屋台に集まり、下り酒やアテを楽しみながら、江戸湾東海から上る月を待った。「二十六夜待」の月見である。海岸線から三つに分かれて輝く月の出の光の中に、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が現れるといわれた。

 立春から数えて210日目は台風の襲来が多い時期、210日、220日は「走り穂」といって稲の穂が出始める大切な時期のため、農民たちは厄日として警戒した。農民たちの杞憂をよそに、生活に追われない貴人たちは「野分の朝こそおかしけれ」と、翌朝の荒涼とした景色に「もののあわれ」を感じ、季節の移ろいを楽しんだ。 2024、9月22日は、暑さ寒さも彼岸までといわれる「秋分の日」であるが、昨年に続き今年も望むべきもないこの暑さである。春の彼岸にやって来たツバメが、南の国に帰る頃とされる秋の彼岸であるが、ツバメたちもどうしょうかと悩んでいるに違いない。春の彼岸に仏に供えるのが牡丹餅、秋に供えるのが御萩である。品物は同一である。この日を境に降る雨は、一雨ごとに秋をもたらしてくれる。旧暦8月23日~9月7日は「処暑」日、月、空、風、花、鳥、天地に存在する「万物の気」が粛然と改まり夏と別れ、秋と出会う一瞬であるとされる。

 晴れたり時雨たりの日が多い長月、珍しく澄みわたる秋晴れの日を「菊日和」と呼んだ。このため9月は菊月とも呼ばれた。谷中の朝顔、団子坂の菊といわれ、この季節、品種の鑑賞の他に、文化文政時代(1804~29)麻布狸穴の植木屋に始まり、千駄木の団子坂、巣鴨や雑司ヶ谷村などの植木屋で演出された、菊人形などの造り物が江戸っ子の目を楽しませた。広重も「名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷」で、その賑わいぶりを描いている。明治の文豪、森鴎外もこの団子坂上に居を構え「観潮楼」と称し、江戸下町の風情を楽しんだ。毎年旧暦9月9日は、その菊が主役の幕府五節句のひとつ「重陽の節句」である。重陽の節句は、古代中国においては、万に満ちる手前の数字「九」が重なる目出度い日、菊にわが身の無病息災を祈った。わが国でも清少納言は枕草子に「九月九日は暁方より雨少し降りて、菊の露もこちたく覆いたる綿などもいたく濡れ…」と記している。この時代の菊の花は今のように大輪ではなく、野や畔に咲く小ぶりのものであった。平安時代初期、菊の花の色は「承和(そが)色」と呼ばれた。当時の仁明天皇が黄色い菊の花をいたく愛したといわれる。その時の年号が「承和(834~847」であったためこの色名がついた。遣唐使、空海の時代である。花の色はこの黄色の他には白、赤位であった。その小さな花弁に真綿を被せ、宴の際に香りが移った綿で体をぬぐったり、花弁を酒に浮かべて飲んだりして長寿と健康を願った。菊酒は古来より、心身を軽くし、老衰に耐え、天寿を延べるとされた。「八重菊も 今日旭の 匂いかな」今日の菊とは、9日の菊のことを指す。10日の菊、6日の菖蒲は物の役にたたない例えに使われる。

 次回はお待たせ「姫たちの落城」意は男子に劣らず・本能寺の変と細川ガラシャ編をお送りします。お楽しみにです。尚「江戸色彩の研究」続き、晩秋編は11月の頃お届けです。



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