<江戸花暦>四万八千日と二人の鬼子母神

 盂蘭盆会が近づくと日本の夏は忙しくなる。盂蘭盆会とは、サンスクリット語の「ウランバナ(倒懸、逆さつり)」の音訳、7月13日から15日を中心に死者の霊を祀る行事で、お盆、盆供とも言い、日本では推古天皇14年(606)頃から始まったとされる。昔昔のその昔、日蓮というお釈迦さまの弟子が、餓鬼道に落ちた母の苦しみを除こうとして、毎日水や食べ物を送ったが、母を一向に助け出せなかった。苦しんだ日蓮はお釈迦さまに相談した。お釈迦さまは「お前のその力を母親だけに使うのではなく、同じ苦しみを持つ全ての人々に使いなさい」説いた。諭された日蓮の行為によって、周りの人々は喜び感謝した。その喜びは餓鬼道にいる母の苦しみを解き放ち、母は救われたという。この説話は仏の世界において、お釈迦さまが親孝行の大切さを説いた教えに由来する。仏教界では死後の世界として「六道」があるという。それは喜び楽しみはあるが長続きしない「天上」、有頂天とは天上界で最上の世界を云う。色々な生き方がある「人間界」、争いばかりの「修羅場」、欲望のままに生きる世界を「畜生道」、常に飢えと渇きに苦しみ、水や食べ物を手に取ると火に変わってしまうという「餓鬼道」、苦しみばかりの世界「地獄」である。我々人間は、死後この六つの世界を廻ることになる。これを「六道輪廻」という。この世界から抜け出すことを「解脱」というが、その修行を助けるのが先祖供養だという。日本における盂蘭盆会は、仏教の「餓鬼道に落ちた者を供養して救う」という意味に加え、日本古来の祖霊信仰(祖先の霊を救う)が融合した形で広まっていった。江戸時代になり、祖先の霊を迎える「迎え火」送る「送り火」の風習も、盛んに行われるようになった。地方の盂蘭盆会に因む行事として、京都五山の送り火、岐阜の郡上おどり、徳島の阿波おどり、長崎の精霊流し、沖縄のエイサーなどがある。

 七夕の7日を中心に6~8日まで繰り広げられるのが「朝顔市」、鉢植えの朝顔は5月の中頃から棒手振りによって市中に売られ始め「入谷の朝顔 団子坂の菊」といわれ、入谷の鬼子母神の境内や周辺は鉢売りの朝顔で埋め尽くされた。朝顔はもともと奈良時代末期から平安時代にかけて、遣唐使が下剤用の漢方薬として古代中国から伝えたという薬用植物、七夕祭りを中心に市が開かれたため「牽牛花」とも呼ばれた。入谷(台東区下谷)の朝顔は、下級武士の内職として始まったが、これはあくまでも鑑賞用であった。江戸庶民が愛した朝顔は、路地裏の隙間にあたる少しの陽射しを、精一杯吸収して健気に咲き、楽しませてくれるそれであった。この路地裏に咲く朝顔の植木鉢は浅草今戸の産、花に合わせ色々な鉢が売り出され、それがかえって花や葉が他の朝顔と異なる「変わり朝顔」が生まれ、流行するきっかけともなっていった。文化元年(1804)の「朝顔水鏡」によると、花の種類は47種、葉は46種であったが、文化12年の「花壇朝顔通」によると80種の朝顔が改良されている。いかに朝顔が江戸っ子たちに愛されていたかが伺われる。入谷の朝顔市の歴史は、文化3年3月4日芝車町で発生し、南西の季節風によって神田、浅草まで延焼した「丙寅の大火」によって焼け野原になった下谷の町で、夏になり鉢植えを持ち寄って売りだしたのが始まりだとされる。その後天保年間(1830~43)の頃から入谷の鬼子母神辺りで市が立ち、更に幕末期の嘉永から安政年間(1848~59)になると「朝顔の花くらべ」といったイベントも開かれ、益々朝顔の種類が多くなっていった。

 仏教の世界では毎年7月10日に観音様にお参りすると「四万六千日分の徳」が授かるとされ、浅草寺には沢山の参拝客が訪れる。人の寿命は約126年=4万6千日が限界だとされている。また、米1升(一生)は米粒4万6千粒相当だという。その人間一生分の無病息災を7月10日の1日だけの参詣で仏様は許した。横着な人間たちが行楽も兼ねて集まってきたため、前日の9日も特異日とした。この両日境内で開かれるのが「ほおずき(鬼灯)市」、境内には鬼灯が所狭しと境内に並べられた。鬼灯は子どもの癇の虫を抑え、大人の癪を切るとされ、赤い袋に被った実を水でそのまま飲み込むと、その効能があったとされる。当初はは6月24日の愛宕権現のほうずき市のほうが知られていた。7月10日に「四万六千日」を行う観音様は、浅草浅草寺の他に、本所回向院、三ノ輪の浄閑寺、日本橋の白木観音、青山の梅窓院などがあった。浅草の観音様は観音様の功徳の他に、歌舞伎三座、浅草田圃の新吉原など、人間様への功徳もあったためその人気は江戸随一であった。「お参りの 二日三日あとに 帰宅する」、ほおずき市が終わると江戸は草市となる。

 「恐れ入谷の鬼子母神」「情け有馬の水天宮」「なんだ神田の大明神」などと太田蜀山人の江戸地口で知られる入谷の鬼子母神は、台東区下谷の真源寺に鎮座する。明暦大火後の万治2年(1659)開山した法華宗本門流の寺院である。鬼子母神はインド・ヒンズー教の子授け、安産、子育ての神、我が国でも密教が興隆、主に法華宗の寺院で子育てや安産の神として祀られた。入谷の真源寺と、雑司ヶ谷の法明寺、下総市川の高寿寺が江戸三大鬼子母神である。今では安産や子育ての神様であるが、元々はインドの夜叉神の娘で、人間の子をさらっては食べてしまうという極悪非道の神であった。これを憂いたお釈迦さまは、ある日彼女の沢山いる子供たちの中から末娘を自分の懐に隠した。嘆き悲しむ鬼子母神に「人間の子供を食べてしまうお前でも、自分の子供は可愛いか」と諭した。「この過ちを悔い改め、人の子を大事にするならば娘を返してやろう」それ以来、鬼子母神は子供たちの守り神になったという。この仏教説話に基づいて、各寺院では鬼子母神の鬼の字は 鬼のツノをとった鬼の字を充てている。鬼子母神像は子供を左手に抱き、右手に吉祥果(柘榴の実)を持っている。柘榴の実は人肉の味がすると云うが、これは我が国で作られた俗説に過ぎない。柘榴はペルシャが原産、シルクロードを旅する商人たちに貴重な水分補給をした。日本には平安時代に渡来、実の皮を煎じたものは染料や漢方薬として用いられ、紅花の発色剤にも使われた。夏に赤い小さな花をつけるとその花は黄赤の実となる。その実は次第に赤くなり皮が裂け果肉が現れる。この果肉のひとつひとつの袋の中に沢山実が入っている。このことから子孫繁栄の象徴とされた。「洗濯に 井戸を変え干す 鬼子母神」と詠まれるように、彼女には千人もの子どもがいたという。そういう事情で「観音の 千手うらやむ 鬼子母神」千手観音さまどうかお助けをの鬼子母神となった。

  都電荒川線、雑司ヶ谷鬼子母神像は室町時代、雑司ヶ谷村小名清戸(文京区目白台4丁目)で見つけられ、寛文6年(1666)広島藩浅野家の正室が社殿を寄進した。ここの土産は風車に麦わら細工のミミズク。高田四ツ谷町に住む嫁のお粂は、貧しいために姑に親孝行が出来ないでいた。ある日鬼子母神に詣でた帰り、鬼子母神の御告げであろうか突然閃いた。麦わらで作れば原価も安く私でも作れる。ミミズクの素朴さが受けて作品は江戸っ子たちに人気を呼び、お染は親孝行ができたという。(次回は今年も猛暑が予想されるため、江戸下町の水事情をお送りします。)     「チーム江戸」しのつかでした。

  

 



 


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