<江戸花暦>茅場町草市と山王御旅所

 日本橋川下流茅場橋が架かるこの辺りは、江戸の頃は茅や葦が生い茂る湿地帯であった。慶長11年(1606)江戸城築城のため、神田橋辺りに住んでいた茅商人と住民たちは、ここ南茅場町(茅場町1~2丁目)に移転させられた。この為か南茅場町の住民たちは、玉川上水の上流地域沿岸に自生する茅を刈り取る権利と、その地域30ヶ村からの年貢を与えられていた。この町の北側には日本橋川、東側には亀島川が流れ、南側には鎧の渡し、南側には草市がたつ「薬師堂」があった。この町に荻生徂徠が護園(茅場)学派を開き、その隣り合わせに其角が住んでいた。

 江戸の頃の家屋の屋根の材料は、武家屋敷や大商人、寺院などは瓦、一般庶民は茅か檜皮や柿の木の薄板を使った板葺、ために町屋は西北西や西南西の季節風が吹き荒れる江戸の街は、1度火がつくと燃えるに任せた状態であった。これを葺く屋根職人が集住していたのが、近くの芝居小屋があった人形町葺屋町である。茅職人は11月の初霜が下りる頃、立ち枯れた茅を長さ1丈≒3mほどに切り揃えて縄で縛り付ける。この縛った茅の束を一〆(ひとしめ)と云うが、職人たちは一坪の屋根に四〆の茅束をあてがい、雨の少ない年末から2月頃まで、「寒葺き」と云われた茅葺きの屋根を葺いた。「荒縄で 着物を縛る 茅屋根屋」。茅は火事にはもろいが、囲炉裏の煙によっていぶされた茅は、丈夫で40年から50年ほどはもったというから自然の力は凄い。

「草市の娵(よめ)は 着替えて 叱られる」草市は旧暦7月12、13日の両日。お盆用(魂祭)の灯籠や草花、野菜類を売る露天商が江戸のあちこちで出た。食べられない桃、柿、梨が「三色、三色」と売り声を掛けて売られたり、蓮葉、栗穂、稲穂、枝栗、かわらけ(土器)などが売られた。他にも麻の皮を取った後の茎で、精霊を迎える火を焚くための苧殻(おがら)や、戒名などを書くための薄い木の板である経木、竹などで荒く編んだ籬(まがき)なども売られていた。また、子ども向けやお土産用に、馬や牛の形をしたワラ細工の人形、赤い実をつけた鬼灯なども売られていた。こうしたもっぱら庶民的な市で高価なものは売られていない。そこへ娵がおめかしをして出掛けるものだから、早速姑に小言を云われる。ここにも嫁、姑の生き方の違いがあった。「夕やくし すずしき凬の 誓いかな」其角。毎月8日と12日は薬師堂の縁日。縁日には「植木を商ふかびしく、参詣群集して賑はへり」の状況であった。(江戸名所図会)本尊の薬師如来は、父母が大和国高屋寺の薬師仏に祈願して、産まれた子だとされる恵心僧都の作、江戸時代になって天海僧正がここに勧請した。薬師如来は眼病に特によしとされ、近くの「鎧の渡し」から、眼を拭くと効能があるとされた赤い絹の布を持って参拝に来た。「赤い切ㇾ 持ってよろひの 渡舟」。また、鎧の渡しは「カヤバ丁 一番舟ㇵ 手習子」と、現代と同じように、塾に通う多くの子供たちの風景が詠まれ、対岸に有名な手習師匠がいた。この盆栽市の薬師堂と隣り合わせに、赤坂山王神社の御旅所があった。

 明治維新、江戸幕府は解体され大名たちは江戸から引き上げ、旗本・御家人は飛散した。赤坂から永田町界隈の約3万坪≒990万㎡の多くは、桑畑と茶畑に変わった。生糸とお茶が維新後の我が国の輸出の花形であったためである。その畑の中に「山王日枝神社」の社がポツンと残された。山王日枝は古くは江戸氏が守護守として祀り、太田道灌は築城の際に、武蔵の国(埼玉県入間郡仙波村)の無量寺にあった権現様を、文明3年(1417)江戸城内梅林坂に祀った。天正18年(1590)江戸に入っ来た家康は、権現様を江戸の鎮守と徳川家の産土神として祀った。「日枝神社史」によると、武蔵の国豊嶋郡江戸郷「山王宮」が山王権現であるとしている。梅林坂にあった山王社は紅葉山に移され、更に慶長年間(1596~1614)には江戸城拡張工事により半蔵門外へ、明暦大火後の万治2年(1659)やっと現在の千代田区永田町2丁目に鎮座することになる。この場所は城からみて裏鬼門にあたる。山王日枝は山王さんの愛称の他、日吉山王神社、山王大権現、麹町山王とも呼ばれた。「神田明神」と並ぶ天下祭りのひとつである。この神社の使いは猿、「魔が去る」に通じた。氏子は日本橋川西南、芝、麹町、赤坂の一帯、山車は60台を超え、一番山車は大伝馬町の諫鼓鳥、2番は南伝馬町の猿舞と続く。6月15日早朝神社を出た行列は山王坂上で各町の山車、神輿と合流、半蔵門から城内へ入る。北桔梗門近くで上覧のあと常盤橋門から城外に出、茅場町の御旅所へ向かう。天正年間(1573~92)八丁堀の御旅所まで神輿が舟で巡行したことから始まり、寛永年間(1624~44)現在地(茅場町1丁目)に御旅所が定められた。江戸時代は本宮から渡御した宮神輿がここで安置され、1泊2日をかけて巡行した。山王日枝神社の御旅所は宮神輿1基、鳳輦2基が留まり、神事を行い「行宮」ともいわれた。「我らまで 天下まつりや 土車」其角。

さて、今年の7月は昨年同様の猛暑が再来とか、そこで<江戸瓦版>もこの暑さを少しでもしのごうと「江戸上水記」番外編、江戸下町の水事情をお送りします。ご期待ください。

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