<江戸花暦>四季の七草 in 向島百花園

 <向島百花園>「人も草木も盛りが花よ 心しぼまず勇んで踊れ 思い草なら信夫ではやせ 招くすすきに気も軽やかと 明日の朝顔宵から化粧 やっとこせやっとこ オイヨイヨイ」 四季を通して百花繚乱の世界「向島」は、享保2年(1717)8代吉宗が桜並木を植樹した墨堤の東側の地域である。浅草の観音様からみて大川の向こう側、隅田川左岸一帯を示す俗称で、寺嶋や牛嶋などの小島や州を総称する地域であった。つまり向こうの島だから、向島と呼ばれるようになった。何とも江戸っ子らしい呼び方である。深川、佃島が「大川のあちら」「川向こう」と呼ばれたようにである。尤もここ向島は、古よりれっきとした陸地があったから「島」と呼ばれていた。同じ向こう側でも深川は多少の陸地があったが、佃島は鉄砲州の沖合に正保元年(1644)築かれた、不如帰が一声鳴く間に通り過ぎた小島であった。佃島に続く月島、勝鬨、晴海は、維新以降、江戸湾の澪筋で築かれた「島々」である。

 さて「深川」は江戸初期、摂津国の深川八郎右衛門が、江戸の東に起立した町で、江戸初期は漁師町である。明暦大火以降、両国橋が架けられ急速に都市化が進み、八幡宮や永代寺門前を中心に繁華街となっていった町である。現在の行政区でいくと、門前仲町、木場、白河など、江戸湾から小名木川、仙台堀川、竪川辺り以南がここにあたる。竪川とは江戸城に対して縦に流れているからこの名があり、この川(堀割)に直交している川が、大横川、横十間川である。その北側に位置するのが「本所」である。本所は本荘とも書かれ、室町時代の荘園のなごりとも云われている。現行では両国、駒形、錦糸町等がここにあたり、隅田川に注ぐ源森川(北十間川)辺りまでを本所と呼んでいた。深川、本所は、江戸期に計画的に街並みが造られた地域で、行政支配は町奉行であった。対して、向島は代官支配、御代官様と云う事は江戸府内ではなく地方という事である。深川、本所の街並みが比較的真直ぐですっきりしているのに比べ、昔田圃であった頃の畦道がそのまま道路になった為、道は緩やかな曲線を描いて伸びている。江戸の隠れ家である由縁がここにある。現在の向島は江戸の頃小梅村、東向島は茄子の産地寺嶋村、隅田川沿いの堤通りは隅田村と呼ばれていた。

 雷門から吾妻橋を渡って左に折れると、スカイツリーが都内で一番映える場所という隅田公園となる。江戸の頃は小梅屋敷と呼ばれた水戸徳川の下屋敷跡である。この南に流れているのが「山の宿の渡し」があった源森川。第一橋梁は「枕橋(正式名は源森橋)」この名の由来は、屋敷内の小川に「小梅橋」が架かり、ふたつの橋が、まるで枕を並べたようであった事からこの名がある。現在は二番めの無名橋を源森橋(三つ目通、旧佐倉水戸街道)と呼ぶ。牛嶋神社、三囲神社、長命寺(江戸グルメ旅、花より団子の向島で紹介)を過ぎると、隅田川唯一の人道橋「桜橋」となる。三囲神社前から、対岸山谷堀(日本堤)の今戸橋を結んでいたのが「竹屋の渡し」。当時の渡しは定期便ではなく、必要に応じて川を往復していた。今戸橋の船宿「竹屋」の若い女将は、吉原帰りの客を向島に送るため、約100m先の対岸の船頭を「たけやぁ~」と、メゾソプラノで呼びよせた。その声は川面を渡って周辺に及び、江戸っ子たちは勿論、羽を休めている「都鳥」まで、うっとり聞き惚れたという。

 仙台に生れた平八は、天明年間(1781~88)江戸にきて、日本橋住吉町で骨董屋を開店、大田南畝(蜀山人)、加藤千蔭、大窪詩仏、酒井抱一や川上不白など、当時の文化人と交流を得、彼らの紹介で諸大名や旗本を相手に骨董屋を商った。その後改名して北野屋平兵衛、略して「北平」と呼ばれた。隠居後、本所の中之郷村に隠棲、菊屋宇兵衛と改名、略して菊宇、鞠塢と称した。「塢」とは川っぷちの土手を意味する。平八は寺嶋村の武家屋敷、約3000坪を購入、「臥龍梅」という梅の古木がある「亀戸の梅屋敷」に対し、四季を通じて百花が乱れ咲く「新梅屋敷」通称「花屋敷」を開園した。開園にあたりひと株の梅の株を要請した処、360余本の梅の株が集まり、他にも自前で萩、桔梗、尾花、刈萱などの秋草を植えられた。詩仏、蜀山人、千蔭などは毎日のように訪れ、勝手な事をいいながら、風がわりな野趣あふれる庭園を造りあげていった。世は化政時代(1804~29)江戸町民文化が花開いた、江戸が一番江戸らしかった時代である。蜀山人は屋敷の門に「花屋敷」の看板をあげた。「屋敷」とは本来武家の住居を示すものであるため、彼は「花屋 敷」とわざわざ「花」と「屋敷」の語句を離して、草書の崩し字で離して書き上げ、幕府からの睨みをごまかした。詩仏は左右の柱に「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」と、千蔭は掛行燈に「お茶きこしめせ 梅子もさぶらうぞ」と揮毫した。こうした次第で多くの文人墨客に愛され、11代家斉も御成りとなりった。かくして江戸っ子たちの話題となり、日本橋川から程良い距離の植物園として人気が集まり江戸の名所になった。菊塢はうるさい文人たちに囲まれながら造園を続け、天保2年(1831)8月秋草の咲く頃、70歳で病没した。辞世の句は「隅田川 梅のもとにて我死なば 春咲く花の こやしともなれ」西行の「願わくば花のもとにて春死なん その望月の如月の頃」をパロディ化したものである。明治44年大洪水で押し流され、昭和13年東京都に寄付された。戦時中は防空壕や野菜畑となり、同20年3月には10日の大空襲で焼け野原となった。開園当初、梅が主体であった「百花園」は、その後、詩経や万葉集など、中国や日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通して花が咲く江戸の花園であり、芭蕉の「紫の ゆかりやすみれ 江戸生」など、30基もの句碑が訪れる者を迎えてくれる。門を潜って右に進むと、この園の売り物、萩のトンネルがある。毎年9月中旬頃になると,宮城野や筑波の萩が花を咲かせ、約300mの花のトンネルを作っている。こうして「向島百花園」は、大窪詩仏が詠んだように、四季の花が咲き乱れ、粋人墨客はじめ江戸っ子たちが足を運んだ名園であった。

 <四季の七草>

「春の七草」正月最初の子の日に野原に出かけ若菜を摘む「若菜摘み(子の日の遊び)」が原点である。邪気を払い万病を除く願いを込めて、芹、なずな(ペンペン草)、御形(母子草)、はこべら、仏の座、すずな(蕪)、すずしろ(大根)の七草を「七草粥」にして食べた。正月で疲れた胃を休め、冬期に不足しがちなビタミン類を補う目的があった。「夏の七草」は、観賞用と食用の二説があり、古事に基づくものは見当たらず、もっぱら植物学者が独自に選定した植物とみられる。昭和20年(1945)日本学術振興会野生植物活用研究委員会が戦時中食料難の時期にも食べられる植物として選定したものに、アカザ、イノコズチ、ヒユ(葉鶏頭)、スベリヒユ、シロツメクサ、ヒメジョオン(姫女苑)、露草の七草がある。「冬の七草」には諸説あるが、面白いものに「冬至の七草」がある。南瓜、蓮根、人参、銀杏、金柑、寒天、饂飩(うどん)の七種類。それぞれに振り仮名をつけていくと「ん」の文字が付いている。つまりこれらの食材を食べると「運」が倍になって返って来るという、縁起の良い食べ物を揃えている。

 さていよいよ「向島百花園」名物「秋の七草」である。万葉の歌人、山上憶良が「秋の野に 咲きたる花を指折りて かき数ふれば 七種(草)の花」と詠んだことから、萩、尾花、葛、撫子、女郎花(姫部志)、藤袴、桔梗(朝貌の花)が、秋の七草として広まっていったとされている。因みに朝顔は、ムクゲ、昼顔などの説があるが、桔梗とする説が有力視されている.秋の七草にはこれに因む節句や行事がある訳ではなく、月を見て楽しむ、秋の風景を見てたのしむといった、もっぱら観賞用に楽しまれてきた。  

 <萩>は草冠に秋と書く。まさに秋の花である。万葉の時代には「芽」または「芽子」と書いてハギと訓んだ。萩は草ではなく、マメ科の低木で7月頃開花、見頃は9月頃で、7月の花札の絵柄は萩に猪である。食べる「おはぎ」を漢字に書くと「御萩」、粒あんの表皮が萩の花に似ていることから、秋の彼岸に食べる半殺しの粒あんのものを「おはぎ」、春の表面がなめらかな、こしあんのものを「牡丹餠」という。「行けど萩 行けど薄の 原広し」これは漱石が阿蘇で詠んだ句である。萩寺として著名な寺は、亀戸の龍眼寺、小金井の金蔵寺と鎌倉の宝戒寺は白萩、同じく鎌倉の海蔵寺は赤紫色の萩がみごとである。埼玉県秩父の長瀞では、秋の七草を種類毎に育てている七つの寺がある。

 <薄>を「ハク」ではなく、ススキと読ませるのは日本読みで、薄の漢名は「芒」である。イネ科のススキ属の多年草で、別名は茅、萱、振袖草、かっては萱(かや)とよばれ、農家の屋根の材料や、家畜の餌として使用された。このため農家の近くにはススキの草原が造られ、これを「茅場」と呼んだ。この茅を使って、雑司ヶ谷の鬼子母神では、ススキの穂でミミズクを作ったり、神社では茎を輪にして茅輪巡りし、小さく輪にした物は「魔除け」として玄関先の飾られている。また、ススキを「尾花」と呼ぶのは、その形が動物の尾に似ている為で、江戸の頃、月明かりに照らされた夜道、提灯ひとつで突然このススキに出くわしたら、さぞや江戸っ子たちは驚いた事であろう。「ゆうれいの 正体みたり 枯れ尾花」

 <葛>はマメ科のツル性植物で、赤紫の花をつける。葛の根(葛根、かっこん)から取りだした澱粉は、葛粉と呼ばれ、葛餅や葛切の材料となる。また、漢方薬葛根湯と知られ、風邪や胃腸不良に効く。花名は、吉野葛の産地「国栖(くず)」に由来する。「葛の花 むかしの恋は 山河こえ」

 <撫子>が秋の七種に数えられるのは、河原撫子であり、万葉の歌人、大伴家持が「君はなでしこが 花に比へて見れど」と詠んだ事に発しているといわれ、名称は撫でたくなるほど小さくて、可憐な姿からついたといわれ、花言葉はこのことから無邪気、可憐。また枕草子でも清少納言は、「草の花はまず撫子、唐(石竹)のは更なり、大和もめでたし、次いで女郎花、桔梗」とし、草花の中でも第一級品であるとしている。源氏物語でも巻名のひとつとなっている。古くは花期が夏から秋に及ぶ事から「常夏」とも呼ばれ、別名「大和撫子」は、本来我が国に自生しているもので、清楚な日本女性を表現、芯のつよい奥ゆかしく慎み深い女性を指し、年齢を重ねていと七変化するから女性は楽しい。英名は「Pink」色名のピンクは、この花の色に由来するといわれている。

 <女郎花>はおみなえしと読み「姫部志」とも書く。スイカズラ科の植物で根と葉には解毒、沈痛、利尿作用が含まれている。この花の名の由来は、黄色い小花が粟粒に似ている事から粟飯の別名である「女飯(おみなめし)」が転訛したことからとも、花が美女を圧倒するほどの美しさであることからとも考えられている。白花の「オトコエシ(男郎花)」に対する女郎花であり、「エシ」は「圧シ」に通じ、花の姿が美女を圧倒するという意味から「オミナ(美女)エシ(圧シ)」となった。また、女性を意味する「オミナ」は、華奢な可憐な姿を表現する事から、花言葉も美人、はかない恋となっている。尚、「女郎」の字が使われる様になったのは平安時代からであり、貴族の女郎を指す敬称であった。江戸期を過ぎ昭和33年「売春禁止法成立」、女郎という言葉は死語となった。

「藤袴」は、菊科の多年草で、花の色が藤色で、花弁の形が筒状で袴の様である事から藤袴とつけられた。茎を乾かすと香りがある事から、香水やシャンプーにも使われ、香草の別名がある。花言葉はいくつもの花が順に咲いていく様から「ためらい」。現在では絶滅危惧種に指定され、野生のものを見ることはほとんどない。

「桔梗」の原産は日本、中国、朝鮮半島の東アジアである。自生した多年草植物であったが近年減少ぎみで、藤袴同様絶滅危惧種となっている。漢字の造り「拮梗」が、更なる吉を意味する事から、縁起の良い花とされ、光秀の水色拮梗など多くの家紋に使われている。原産地は中国、朝鮮半島、日本。根にはサポニンが多く含まれ、生薬として咳止めに利用されており、蕾は6月下順頃から除々に緑から青紫になり、開く時に音をたてそうな星型の花を咲かせる。「拮梗花 咲く時ポンと 言ひさうな」千代女。因みに蓮の花は夏の早朝、パカッと音をたてて咲く。拮梗に似た花に「竜胆(リンドウ)」がある。根が架空の動物龍の腑(従って想像の味)の様に苦い事から、竜胆が転訛したという。この花は群生しないで、孤立して紫の花を咲かせることから、花言葉は「悲しんでいる貴方を愛する」。ハート型の種をつける「フーセンカズラ」は、百花園のつる棚でも栽培されているが、夏にクリーム色の小さな花を咲かせる。実が熟すると中にいっぱい詰まっていた綿毛をつけた種が、凬にのって風船の様に飛ぶ。この事から花言葉は「いっぱいの夢(実)」「隠された能力(花)」となっている。どちらも元気の湧く花言葉である。秋の野に咲く花、トリを勤めるのは「吾亦紅」(ワレモコウ)。平安の頃から人気の花で、源氏物語にも登場してくる。茎や葉に香りがあるため「吾木香」とも呼ばれている。細長い実のように見えるのは小さい花の塊りで、長い穂の先から下へと花を咲かせていく。英名は<garden barnet>「吾もこうありたい」という思いをこめて名が付けられたという。吾亦紅、この花の名は、世界にはいろいろな人間がいて、それぞれ考え方、生き方があると、主張しているようである。

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