<江戸グルメ旅>夏も近づく日本茶物語

 「立春」から数えて八十八日目は5月2日。桜は染井吉野から枝垂れになり、八重に代わって葉桜になり、「目には青葉 山ホトトギス 初鰹」の季節となる。文部省唱歌「茶つみ」は、この時期の茶摘み風景を唄った歌であり、藍染めの絣に赤いたすきを掛け、柘植の笠を被った若い娘が新茶の葉を摘んだ。八十八夜から数日すれば「立夏」となる。

 八十八夜は太陽の動きから計算された雑節のひとつ、この雑節が暦に採用されたのは、江戸時代の「貞享暦」からである。本来暦は実地観測によって、天文現象を記述するものであるが、日本では江戸時代まで、正確な器具を使っての観測は行われず、古代中国唐から伝来した暦を使用してきた。そのため実際の気象状況とのズレが生じ、日食、月食などの予測、記録も曖昧であった。それらを補い改良したのが、貞享元年(1684)の貞享暦である。この暦は農作業の基準をなすものとして、農業に携わる人々に非常に役にたった。「彼岸の中日に種籾を池に浸す」「八十八夜には苗代の播種、茶摘み、蚕のはきたてを始める」「八十八夜の別れ霜」など、現代でも通用する言葉が並んでいる。八十八夜ともなると霜も降りない時期であるが、それでも降れば折角の作物が台無しになる。そこで甘い観測をやめるために「八十八夜の別れ霜(忘れ霜)」として、気象状況に気を配った。因みに統計学的には気象庁発表の天気予報の的中率は80%程度とされ、残る20%は「観天望気」から予知出来る場合が多いとされている。自然現象や生物の行動の様子などから、天気の変化を予測することを観天望気というが、世界でも多く浸透しているものとして「夕焼けの次の日は晴れ」「太陽や月に輪(暈・かさ)がかかると雨か曇」などがある。

 江戸時代の寛永10年(1633)から幕末慶応2年(1866)まで、京の宇治から江戸城まで、お茶の葉が壺に詰められて運ばれた。この道中を「お茶壺道中」正式には「宇治採茶使」という。3代家光が将軍家に献上させる茶の調達を、宇治の茶師たちに任せたのが始まりとされる。 八十八夜から3日前後に摘み取った最高級の碾(てん)茶=抹茶の原料となる茶葉を、茶壺に詰させ江戸に運ぶように命じた。宇治から江戸まではJRを利用すると、京都から木津・奈良方面へ向かう「奈良線(みやこ路快速)」を利用して約15㌔≒4里、京三条大橋からお江戸日本橋まで125里20丁、加えると合計約130里弱、1日10里≒40㌔を駆け抜けるとして、13日前後の行程で江戸へ入った。この茶頭に命じられたのが上林家である。上林家はもともと丹波の土郷、永禄年間(1558~69)久重の代になって宇治に移住、茶の栽培に携わるようになった。慶長5年(1600)「関ケ原の戦い」の緒戦、伏見城が西軍に包囲されたことを知ると久重四男竹庵は、鳥居元忠率いる伏見城防衛軍に参陣した。この時竹庵が自分の旗印にしたのが、茶道具のひとつ茶筅(ちゃせん)であった。伏見城に押し寄せた西軍は4万余、元忠軍の奮戦に西軍は兵を増強してやっと落城させた。家康に今川時代から従ってきた鳥居元忠は討ち死にした。62歳。付き従った竹庵も敵の槍によって落命した。この戦いにより西軍は美濃、伊勢方面の攻略に遅れをとった。また、京極高次による大津城防衛でも、西軍は関ヶ原に遅れをとっている。天下をとった家康は宇治を幕府領(天領)とし、家光は上林家を、お茶壺道中総責任者である茶頭取に命じた。

 宇治から江戸まで、将軍が飲むお茶の搬送のために数千人の行列となった。お茶壺が通行する街道は通行禁止、旅籠も営業禁止、田畑の耕作や煮炊きの煙をあげることまで禁止された。御三家といえどもこの道中に遭遇したら、駕籠や馬から降りて道を譲った。単なる茶の葉が入った壺を運ぶために、葵の御門を嵩に懸けた、武士もどきの人間たちが演じたデモストレーションであった。封建社会の弊害である。行列がやってくると、街道の住民たちは家の中に隠れ、息を潜めて行き過ぎるのをひたすら待った。道中の様子を唄ったのが、わらべ歌「ずいずいずっころばし」である。♪「ずいずいずっころばし胡麻味噌ずい 茶壺に追われてとっぴんしゃん(台所で胡麻味噌作っていたら、お茶壺道中が通りかかったので、家に入り戸をピシャンと閉めたの)」「ぬけたらどんどこしょ 俵のネズミが米喰ってチュウ、おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでもいきっこなしよ 井戸の周りでお茶碗欠いたのだぁ~れ(行列が行ったらどんどん騒げるからガマンガマン。ネズミが大事な米を食べているけど、お父さんが呼んでもお母さんが呼んでも行かないわ、こんな時井戸端でお茶碗洗ってガチャンと割ったの誰?)」現代ならば宅急便が東名・名阪高速を飛ばしてお終いである。封建制度の権威づけを皮肉ったわらべ歌である。

 日本のお茶栽培地は、生産量においては昭和34年から第1位は静岡県(牧の原台地、大井川河畔、菊川etc)であるが、第2位の鹿児島県(知覧、霧島etc)との差が迫っている。第3位三重県、第4位宮崎県と続く。他には室町時代からの宇治茶、江戸庶民に親しまれた狭山茶、玉露で名を高めた女茶(福岡県)などがある。お茶は気候、標高、土壌、陽当りなど育った土地によって味わいを変えてくる。その中でも標高が高くなると香りがよくなり、平地で育ったお茶は味わいが濃くなる傾向にある。また、有機栽培で作られたお茶はすっきりとした味わいと香りの茶葉となる。旨いお茶はは気候条件、土地、生産者の技術によって決まってくる。また、日本茶(緑茶)の樹は90%が「やぶきた」種、他に「おくみどり」「さえみどり」などの種類があるが、植えてから摘み取りまで5年近くかかる。1年間かけて育成した茶葉は4月から5月に摘み取る。その年に最初に摘み取った茶が一番茶となる。摘み取った茶は蒸気を使って加熱処理され、茶葉の中にある酸化鉄の動きを止め、きれいな緑色のまま乾燥させ緑茶となる。粗揉、揉捻、中揉、精揉と何度も熱風を当て、乾かしながら製品を整えていき、水分5%程の荒茶とする。更に選別、整形、乾燥、ブレンドされ、水分3%程の仕上げ茶ととなり、商品として流通される。5月新茶として店先に並ぶ煎茶は、九州地方で採れた茶で色と香りがみずみずしい。八十八夜に摘まれた新茶の飲み頃は秋で、ひと夏寝かせて熟成させたものが、秋に売り出され本来の旨味がでる。茶道で使われる抹茶も、八十八夜の頃に製茶してひと夏保管、秋ごろ茶臼で挽いて売り出される。茶壺の口を封じておいた紐を切って開けることから、この最初の茶会を「口切」という。

 「玉露」は新芽が開き始めた頃から、段階的に日光を遮って育てられた茶葉で、摘み取りの際には暗がりの中で茶摘みがおこなわれる。この遮光と肥料を多く使用するため、香りと強い甘み、旨味を持つ。江戸時代製法が確立、当時から最高級のお茶として扱われてきた。「煎茶」生葉を蒸したあと、揉みながら乾燥させた緑茶の総称で、艶のある濃緑色できれいな針状をしている。「深蒸し茶」煎茶より茶葉が細かい粉状になっているため、お茶の繊維を感じる濃厚な味わいが特徴となっている。「釜炒茶」鉄釜で炒ることによって独自の香りが引き立つ。九州嬉野は著名な産地である。「ほうじ茶」緑茶を焙煎して香ばしく炒りあげたもの。一般的に葉の部分が多いものは味が濃く、茎だけ使用したものは甘みが強い。焙烙(ほうろく)やフライパンで緑茶を炒っても自家製のほうじ茶も作れる。「玄米茶」通常玄米と煎茶が1対1の割合で、日本茶のflavor teaである。玄米の少し甘い味わいと香ばしい香りが楽しめる。自分でも炒った玄米を加えれば、自家製の玄米茶が楽しめる。「番茶」番茶とは地方色豊かな日常茶のことで、文化や様式が異なるため地域の色合いが豊かなお茶となっている。通常、流通しているものではなく、家庭用として消費される自家用茶である。

次回チーム江戸HPは「江戸名所四日めぐり」です。在からきたお下りさんが、江戸名所を日帰りで、東西南北とその年の恵方から廻った物見遊山の旅物語です。お楽しみにです。







































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