<江戸花暦> ハスの花 in 上野不忍池
2023年 今年の夏は早い、加えて厳しい暑さとなっている。その暑さに負けず、上野不忍池に咲くハス(蓮)たちは、もう見事な花を咲かせている。水芙蓉(すいふよう)不語仙(ふごせん)などの異名をもつ、不忍池一面に浮かぶハスは、夏の日の早朝、パカッと音をたてて花開き、昼にはもう閉じる。丸い葉の間から、より高く茎を伸ばし明るい桃色や白い花を咲かせる。江戸時代には彩とりどりのハスが植えられていたが、現在は桃色の「ジバス」と白色の「明鏡蓮」の二系統だけである。インド原産のハスは、インドやベトナムの国花、仏の知恵や慈悲のを象徴する花で、仏典ではハスの花とスイレン(睡蓮)を指して「蓮華」といい、仏陀が座する台座を、蓮華座(れんげざ)と呼ぶ。仏の世界では、泥の中から育ち美しい花を咲かせる事から、ハスの花は穢れのない花とされている。故に、花言葉は「清らかな心」「神聖」。因みに「一蓮托生」という言葉は、人々が死後に極楽浄土に往生して、同じハスの花の上に生まれ変わって身を託すことになる、仏教思想が語源となっている。
昭和36年植物学者大賀一郎博士は、千葉市検見川にある東大の原生農場の落合遺跡から、ハスの種を発掘、これは2000年前の弥生時代後期のものだと確定された。発掘された3粒を発芽に試み、2粒は失敗したが、残る1粒は翌27年に見事に発芽、開花した。このハスを、米ライフ誌は「世界最古の花生命の復活」と伝え、人々はこのハスを「大賀ハス」と呼んで称えた。またこの他にも古代蓮には、奥州平泉中尊寺金色堂須弥壇から発見され、約800年ぶりに発芽に成功した「中尊寺ハス」。埼玉県行田市のゴミ焼却予定地から発掘され、1400から3000前の物語発芽した「行田ハス」などがある。因みに、大賀博士は「不忍の蓮」と云う文章の中で、不忍の池にハスを植えたのは、上野桜ヶ丘に住んでいた林羅山かと考えていたが、からの著作にハスの記述がない事を考えると、寛永寺を造営した天海か、弁天島を造った水谷伊勢守と考えるようになったという。また、昭和10年の博士の調査では10種類ほどのハスが生育していたと記されている。第2次大戦中は水田に利用されていた。
「しのぶれど 色に出にけりわが恋は ものや思うと人の問ふまで」平兼盛。南国薩摩隼人は「わが恋の燃ゆる想いにくらぶれば 煙はうすき桜島山」と、詠んでいる。「しのぶ(忍ぶ)」とは、口語辞典を開くと、我慢する、耐えるという意味がある。さらに昔の事柄や人物を懐かしく思うから、世(人目)を忍ぶ、偲ぶ恋など和歌の世界の言葉に入ってくる。「不忍池」は、縄文海進時は上野台地と本郷台地(向ヶ岡)の間、江戸の海の入り江にあった。海の水が退くとともに、池となって取り残されたのが、平安末期の頃だとされる。旧石神井川が武蔵野台地の東端を流れ、根津の谷あいから、藍染川(谷田川)が池に注ぎ込んでいた。江戸期には池から忍川が東流、三橋(現在の中央通リと不忍通りの交差点付近)を潜り、上野山下、上野広小路を横切り、三味線堀から鳥越付近で隅田川に注いでいた。現在の池は周囲約2㌔、水深84~92㎝、水源は雨の水と若干の湧水、都会に残されたオアシスである。
上野台地は「忍ヶ岡」と呼ばれていた。ここを縄張りの名人、伊賀上野の城主藤堂高虎が拝領、ためにこの地は上野と呼ばれるようになった。この山に寛永2年(1625)天海は、徳川家菩提寺「東叡山円頓院寛永寺」を建立。この年号を寺名にした例は、延暦年間(782~806)京の鬼門に建立された天台宗「比叡山延暦寺」がある。徳川幕府もそれに倣い、江戸の鬼門の上野の山に、東の比叡、天台宗東叡山寛永寺を創建した。上野寛永寺を開いた天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、池の中に竹生島になぞられた中島=弁天島(天龍山生池院不忍辨財天)を築造した。不忍弁天様は「むすぶの神」として信仰を集めた。こうした歴史から不忍池という名称は、忍岡(上野の山)に対する名称だと考えられるが、それについては異説も多い。弁天堂にある天保年間(1830~44)の碑には「篠輪津」とあり、篠とハスが生い茂った池であった。この池で採れる蓮根は将軍家に献上され、ハス飯として調理された。また、ハスの他にもカヤやススキが、体が隠れるほど生い茂り「姿を忍ばず」であった事から、不忍池の名がついたともいわれている。「江戸名所図会」には、この池東叡山の西の麓に在り、江州琵琶湖に比す。広さ1丁許りとある。池の周辺には出合茶屋が多かった。
頭ひとつぬけた小高い台地は、いつの世も戦術的な要害として戦いの場所になる。慶応4年(1868)1月「鳥羽・伏見の戦い」の緒戦に破れた幕府軍は、5月彰義隊を結成、上野の山に立てこもり薩長軍に戦いを挑んだ。新政府軍の指揮を任されていた大村益次郎は、短期決戦に帰すべく、1855年イギリスで開発された対艦砲アームストロング砲を並べ、一斉に水平射撃を行った。この大砲従来の大砲に比べ破壊力が強く、充填時間が大幅に短く、連射が可能なため、東叡山の山頂はたちまち崩壊、幕府軍は北へ逃れ、戦いは1日で終了した。上野寛永寺は皇族の輪王寺宮が住まわれる寺で、天皇家とも関係が深い。為に、江戸時代上野の山の花見は歌舞音曲なし、夕方までとされていたが、幕末になって大砲が打ち鳴らされ、しかも寛永寺の「勅額」が灰燼に帰してまった。これを知った13代家定の御台所、天璋院篤姫は「新政府こそ朝敵ではないか」と詰問したという。明治維新後、江戸っ子を苛立させた事件は、この「彰義隊の戦い」の他に、「江戸城二の丸焼失事件」がある。また、明治5年「銀座の大火」によって始まった銀座煉瓦街の建設資金に、江戸時代から火事や災害のため積みたててきた「七分積み金」を、大蔵卿井上門多(馨)は、一方的に煉瓦街は住民の福祉のための事業だと強弁して流用、結果は市民生活とは全く関わりのない、暗い狭い湿った建造物であった。時代が変わっても、政治家の考えかたとやり方は変わらない。常に、表(理屈)を合わすだけである。後年、江戸っ子たちと旧幕臣たちの意地とハリが結集、家康が入府した八朔の日に「東京開市300年」本来ならば「江戸開市300年」なるイベントが上野公園で開かれた。大声で連呼された「徳川万歳」の大合唱は、上野の森にこだましていったという。 「チーム江戸」 しのつか でした。
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