柳と銀座 ➁

 <銀座編> ♪「昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」昭和4年から全国的に大ヒットした「東京行進曲」である。その頃のデパートガール(その頃はこう云った)の日給80銭、週休1日制として、月給20円であったのに対し、ダンサーの給料は50~300円であった。こんな高給に恵まれた彼女の涙とは、やくざな父と年老いた母を抱えた自分の環境を嘆いたのであろうか、はたまた好きなお客に邪険にされたからであろうか。女性心理と銀座は奥深く面白く興味深い。日本橋にはヒットした歌謡曲は少ないが、銀座には特に柳を唄った唄が多い。昭和7年「銀座の柳」、同11年 ♪花咲き花散る宵も~と唄われた「「東京ラプソディ」、戦後になっても ♪青い芽を吹く柳の辻に~「東京花売り娘」、裕次郎の映画にもなった「銀座の恋の物語」昭和の世代に懐かしい銀恋の碑は、外濠通りの柳の下にある。古今東西、紳士諸君が愛してやまない美人たちは、よく柳に例えられる。「柳の眉」「柳の髪」、しなやかな細身の美人を「柳腰」、美人たちが歩き会話する様子を「柳が歩めば花が物言う」という。また、美しいことの例えを「花街柳巷」という。、略して花柳、転じて花柳界。街路樹に桃の花と柳を植えていた事から、そのような場所をそう呼ぶようになったという。更に、人生の生き方を柳に例えるならば「柳で暮らせ」という言葉がある。文字通り柳が大風でも折れない様に、人も肩をはらずに、気楽に暮らしなさいという意味であるが、同じ様な言葉に「柳にあしらう」「柳に受ける」「柳にやる」「柳に凬(雪)折れなし」という。「気にいらぬ 風もあるのに 柳かな」柳も人の世界の中でもまれて忙しい。

 さて、柳と共に、国土交通省 東京国道事務所発行のパンフレットをベースに、江戸の頃からの銀座をだどってみよう。天正18年(1590)家康入府。道三掘と小名木川の開削、日比谷入江埋立に伴い、円覚寺領であった「江戸前島(日本橋波蝕台地)」の海岸線を、西は外濠川、東を楓川、三十間川とした。江戸前島に降った雨の排水路と、航路としての水路を確保したものである。その後、北に京橋川、南に汐留川を堀削、銀座は四方掘割に囲まれた「東洋のベニス」水の都であったが、昭和39年の東京オリンピックを前後して、先人の遺跡は安易な発想のもとに利用され、高速道路の街となった。江戸初期、後藤庄三郎を中心になされた銀座の町割は、慶長11年(1612)銀座役所と鋳造所を駿府より移転。現在の1~4丁目は「新両替町」となり、2丁目に鋳造所が置かれ、1,3丁目は役宅、4丁目に金や銭の両替所があり、概して職人町であった。旧東海道筋にあった、5丁目には尾張町、布袋屋など数軒の商家があるのみで、その先は加賀町、7丁目に朱座、幕府の式楽、能の金春屋敷、出雲町、因幡町、山城町など、慶長年間(1596~1614)、大名たちが造成した町と、鍋町、竹川町、南佐柄町、弓町、紺屋町、肴町、弥左衛門町、滝山町などの御用達町人地であり、日本橋、京橋に比べ、賑わいは今ひとつであった。

 江戸の通貨は、金貨、銀貨、銭貨の三本位制、「銀座」は、銀貨、銭貨の鋳造、検査、両替の役所であり、勘定奉行支配の用達(ようたし)町人(銀座では大黒屋、金座では後藤家)たちが、手数料(ex慶長小判1%)を取って、請負制で代行していた。江戸期を通じて、度重なる改(悪)鋳が行われた。赤穂浪士の仇打ちがあった、元禄15年(1702)、この年は丹後宮津で一揆が起き、幕府は物価低減令、酒造制限令を出した年でもあるが、5代綱吉政権の下、勘定吟味役萩原重秀らにより、金の含有率、慶長小判87%から、元禄小判57%に引き下げ、従来小判2枚分を3枚分に増量、悪鋳、つまり2両の金貨を3両分の価値にしてに増量したのである。これには側用人柳沢吉保も絡んでいた。この改(悪)鋳によって、およそ500万両の差益(幕府は御益金とよぶ)を得た。因みに当時の江戸幕府の歳入は、天領石高(幕領からの年貢)400万余石、金に換算すると約77万両、この他に直轄鉱山からの金銀、長﨑貿易の収益、商工業者からの運上金などがあった。ここから歳出、旗本、御家人の俸録30万両を引いた47万両が幕府に入ったが、この他にも、金がかかった大奥の歳費や役所の経費、災害発生時の復旧予備費、寺社造営費なども頭の痛い支出であった。元禄の悪鋳による500万両の御益金は、幕府年間収入10~11年間分に相当、元禄文化の仇花が咲いた。こうした度重なる通貨の改鋳により、武士や江戸の庶民たちは慢性的なインフレに陥っていく事になる。元禄の悪鋳に絡んだ不正事件は、寛政改革により発覚、「銀座」は蠣殻町(現人形町1)に移転、町の名と銀座発祥の地碑が残った。

 明治2年、明治政府により「新両替町」から、銀座1~4丁目となる。明治5年、2月26日、和田倉門外から出火、日比谷、銀座、築地、隅田川まで延焼、本願寺、築地ホテルなど、焼失家屋約5千に及ぶ「銀座の大火」となった。この火事に対し、当時の府知事由利公正は、旧東海道筋の不燃化を目指し、大通り3階建の煉瓦街を造り上げた。日本家屋に住み慣れた江戸っ子たちにとって、間口が狭く使いずらく、湿気がこもって不衛生であると、芳しくなかったが、それでも新聞社など出版関係の会社で埋まった。この煉瓦街は大正12年の震災、昭和20年の戦災によって、消滅する事になる訳であるが、この街の完成に併せて、街路樹に櫻、楓、松が植えられた。しかし、銀座の土地は埋め立て地が多いため、水位が高く根ぐされして枯れ死してしまった。そこで水辺に強い柳が植えられた。(第1次)柳は土地に合い、胴廻り1mほどに丈夫に育ったが、大正10年、車道拡幅によって撤去される。大正12年9月、関東大震災、銀座も焼野原となる。

 大正13年、松坂屋(銀座シックス)、同14年、松屋、昭和5年に三越開店、当初の売場構成は男性用品が大半を占め、女性向けは呉服関係のみであった。戦後、女性の社会進出が進み、1階のネクタイ売り場を除き、女性を対象とした商品構成となっていく。銀座に進出している海外ブランドの旗艦店80余も殆ど女性客をターゲットにしている。銀座は戦後、女性とともに成長してきた。また、当時の銀座の商慣習は、正札をつけないで販売をしていた。現在のような正札掲示は、昭和39年の東京オリンピックに備えてなされたものだと云う。震災からの復興が伺えた、大正末期から昭和初期の約15年間、モボ、モガが銀座の街を闊歩、「大正デモクラシー」を謳歌した。昭和5年、銀座は1~8丁目となり、江戸からの懐かしい名称が消えていった。昭和7年、東京に進出してきた朝日新聞社が、柳の苗木約200本を寄付したのを始め、合計300本が銀座通り、晴海通りに植えられた。(第2次)同9年、京橋~新橋間の地下鉄銀座線開通。因みに銀座を経由する地下鉄は数本あるが、会社側は銀座の下を通過することによって、乗降客が増え、結果的に資本の回転率の向上につながると云う。

 昭和19年、サイパン陥落、昭和20年から一般市民、民家への無差別爆撃が激化、相次ぐB29による、東京大空襲は102回に及び、特に3月10日一日で、東京の40%が焼失、被害者300万人、死者10余万人に達した。208本を数えた銀座の柳は、7,8丁目の40本を残して焼失した。敗戦後の銀座はGHQが占領、服部時計店、松屋はPX(売店)黒沢ビルは1階東京案内センター、2階スナックバー、3階赤十字部隊事務所となった。道路名もアメリカ式になり銀座通りなど、南北の通路がストリート、晴海通りなど東西をアベニューとよんだ。その頃襲った台風まで、キャサリン、キテイと女性名でよばれていた。昭和23年、焼失した柳を補植(第3次)同27年、4月10日から、♪君の名はと たずねし人あり のメロデイにのって、NHKラジオ放送「君の名は」が放送開始、寛永6年(1629)、伊達正宗によって創建された御門に架けられた数寄屋橋が、銀座の名所になった。放送時間になると女湯がガラガラになったと云う。昭和34年、オリンピック開催決定を機に、ビル建設が進み、晴海通りなどの柳が撤去される。同36年、日比谷線の工事、同43年、銀座通りの歩道を、都電の御影石(赤みがかった石は済州島のものだという)を使用した改修工事により203本撤去、日野苗園に移植。同45年、ホコ天開始、マック1号店が銀座三越に開店、カップラーメンも売り出された。同60年 根付いた銀座の柳2世を8丁目の御門通り角に植樹、同61年より、泰明学校、銀座中学校など各地に2世柳を寄贈、植えてうれしい銀座の柳が、日本全国版となる。(4次)

 京橋から新橋まで約1,1㌔、数寄屋橋から万年橋まで約800m、東に築地、西に丸の内、霞が関、南に新橋、汐留、北に京橋、日本橋、神田に囲まれて地の利がいいのが、銀座の魅力であり、地価が常に日本一を誇る表通りも魅力のひとつである。一方、江戸時代、職人町として成立したことの証として、今も残る銀座の文化遺産「路地裏」も、銀座の魅力の第1である。大通りから1本横丁に入り、更にその奥、ビルとビルの間の空間、小体な飲食店が立ち並ぶ、むき出しの排水溝が真ん中を通っている路地裏は、銀座が他所からきた人間を、暖かく迎えてくれる魅力のひとつである。江戸時代の町の考え方は、通りを中心として、左右に並ぶ家でひとつの塊、つまり町と考えられていた。現在では道路で囲まれた地域がひとつの町となっている、つまり道路によって人の交流が分断されているのである。例えば8丁目5番などのように、ひとつのブロックには必ず縦横に路地が通っていた。この形が銀座に残っていた。裏側には共同井戸、厠があり、暮らしそのものの場所であった。再開発により、路地を囲むビル建設で、銀座の魅力の路地や古い家屋、昭和40年代には6軒あった銭湯が、2020年現在、銀座湯(1丁目)、金春湯(8丁目)になるなど、銀座の数々の魅力が、ひとつひとつ消滅していくのは淋しい事である。


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