「江戸名所四日めぐり」⑥北コース㋑

 江戸四日めぐり3日目となる<北コース>は、神田川に架かる三十六見附のひとつ「浅草御門」橋(現浅草橋)を渡り北へ向かう。この門は浅草観音への道筋にあたるため浅草御門と呼ばれた。明暦大火(1657)伝馬町牢屋敷から解き放された囚人たちは、脱走と誤解されこの御門で足止めを食った。このため折からの一般市民と重なり、焼死、溺死、圧死者など2万近くの人たちが犠牲になった。江戸城外郭門常盤橋御門から伸びている「日光道中」である。日光道中(街道)は日本橋から千住大橋を渡り、宇都宮で西へと折れ下野日光鉢石まで、35里(約140㌔)21宿(徳次郎の下、中、上を入れると23宿)、五街道のひとつである。元和2年(1616)家康死去、翌3年廟所が駿府久能山東照宮から、江戸の鬼門にあたる日光東照宮へ移された事により、宇都宮までの奥州道中(街道)は、将軍、諸大名や庶民たちの日光参詣が頻繁になり、街道が整備され日光道中と呼ばれるようになった。宇都宮から秋凬の吹く白河の関まで10宿、ここより道中奉行の支配となる青森三厩(下北半島)までは仙台道、松前道となる。因みに歴代将軍は江戸城神田御門を出て八つ小路に至り、筋違御門から「中山道」を向かわず、東に折れ上野広小路から鳩ヶ谷、岩槻、幸手とバイバス「日光御成道」を進んだ。常盤橋御門から伸びている日光道中はこの辺りでは「本町通」と呼ばれ、江戸の町を西から東へと結ぶ幹線道路である。因みに北から南へ結ぶ道を「筋」と呼ぶ。本町は江戸の頃は「古町」と呼ばれ、入府当初から形成された江戸の町である。常盤橋御門から本町1~4丁目、大伝馬町、通油町、通塩町、馬喰町、横山町と江戸の頃からの町名が並んでいたが、震災や戦後の区画整理で、大伝馬町から東は馬喰町、横山町を残し、東日本橋1~3丁目と変わった。

 浅草御門内の馬喰町には、明暦大火後に常盤橋御門から移転してきた「関東郡代」の屋敷が置かれていた。郡代は幕府直轄地(天領)10万石相当分を(越後屋と組んで悪さをしたという代官は5万石)管轄する地方行政官である。直轄地の租税徴収や民政、領民紛争の調停などを担当した。ここに訴訟にやって来た領民たちが宿を取ったのが「公事宿」である。彼らは問題が調停される間に、折角の江戸をということで「江戸名所四日めぐり」と洒落こんだ。御門を過ぎると「浅草蔵前」、隅田川右岸沿いに札差商人たちが暴利を貪った御米蔵がある。旗本・御家人たち幕臣は、給料である俸禄米をここへ受け取りにきたが、やがて彼らに手数料を払ってその手間を省いた。更に現代でも通ずる、固定された俸給に対し毎年上がる物価に、支給される米を担保に金子を借りるようになっていった。この借入金は数年先までとなり、悪のスパイラルは拡大していった。不当な金利を貪った札差商人商人たちは「十八大通」と呼ばれ、これから巡る新吉原や浅草などで豪遊した。歌舞伎十八番でお馴染みの花川戸助六は彼らがモデルだという。彼らは松平定信による「寛政改革」で衰退していった。ここより隅田川を北へ少し足を運ぶと「駒形堂」、天慶5年(942)の平将門の乱によって、荒れていた浅草寺を再建するにあたり、観音堂と共に駒形堂も建立された。本尊は馬頭観音である。2代目三浦屋の高尾(仙台高尾)が「君は今 駒形あたり ほととぎす」と詠んだ舞台である。吉原に働く遊女は間夫がいないと務まらないという。高尾は度重なる仙台藩主伊達綱宗の要請をけり、自分の意を貫き三又中洲で斬殺された。広重は「名所江戸百景」八十一景「駒形堂吾嬬橋」で、暗い空に閃く赤い布を描いている。紅白粉を商う紅屋百助の旗である。その旗の上に鳴いて血を吐くほととぎすが飛んでいる。広重は赤い布とほととぎすの構図のなかで、燃えて身を滅ぼした仙台高尾の血を吐く思いを重ねた。今では駒形どぜうや麦とろの店が店を構える。

 「吾妻橋」は安永3年(1774)5番目に創架された。近くに花川戸と現森川・枕橋をつないでいた「山の宿の渡し」がある。この橋を請け負った人たちは、当初宮(観音堂)戸(入口)橋を考えていたが、結局は「大川橋」となった。しかし、地元住民の江戸っ子たちはこの橋は南葛飾郡(現墨田区側)吾嬬神社の参道にあたるため「吾嬬橋」と呼んだ。日本武尊の妃弟橘姫=吾が嬬である。しかし、「嬬」という字はは正式の妻を意味しないということから当用漢字の「妻」を充て吾妻橋で落ち着いた。雷門から仲見世通りに入ると観音様を祀る観音堂、東側には推古天皇36年(628)聖浅草観音像を隅田川から救い上げた三人を祀る三社神社、南側には時を知らせる弁天堂「時の鐘」がある。芭蕉は「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と元禄泰平の江戸を詠んだ。江戸入りした家康は、浅草寺金龍山を祈祷寺とした以降、浅草は江戸っ子たちのレジャースポットとして繁栄、その賑わいぶりは外国さんまで含め現代に至り、毎日がお祭りの町となっている。随身門から「馬道通り」を渡ると、春のうららの隅田川河畔となる。春は花見、夏は夕涼み、秋は月見に虫聞き、冬は雪見と春秋暑寒、四季を通して江戸っ子たちを慰め癒してくれ続けた隅田川である。この川の存在は江戸には不可欠なものであり、江戸の街の拡大、繁栄に大きく寄与して来た。

 革製品を多く商う花川戸を北へ上ると「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」待乳とは「真土」とも書き、この辺り一帯は泥の海であったが、ここだけは地層が盛り上がり硬い土地柄であった。現在でもハザードマップでは洪水の危険度が低い地域となっている。境内各所には二股大根や巾着の絵柄が印されている。大根は心身の毒を清め、夫婦和合の御利益を、巾着は商売繁盛の御利益をもたらしてくれるという。家康江戸入府直後の創世記、待乳山聖天の東側は下総市川国府台の間に、利根川、荒川など5本の大河が江戸の海(東京湾)に流れ込み、大雨の度に氾濫、江戸の拡大を阻害していた。そこで家康は忍城松平忠吉、関東郡代伊那忠次に「利根川の東遷」を命じた。つまり、江戸の海に流れ込んでいる利根川水系を北の印旛沼などを使い付け替え、下総東端太平洋側の銚子へ流そうという一大プロジェクトである。元和7年(1621)赤堀川の開削工事に始まり、承応3年(1654)通水を経て、約60余年の歳月を費やし、銚子河口までの安定した水運が確保された。これにより江戸の町の水害は和らぎ、新農地の拡大、物流の効率化などによって江戸の経済は拡大していった。さて、次回は江戸の男たちの他、女たちも遊びに行ったという、四季を彩るファッションリーダーの町「新吉原」、江戸グルメ情報の長命寺などを巡ります。 「チーム江戸」しのつかでした。

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