「江戸名所四日めぐり」⑤<西コース>㋺

 九段坂を東へ下ると、幕臣神保長治の屋敷があったことからこの名がある「神保町」へ出る。江戸城の北側に位置する町で、武家屋敷が立ち並んでいた。現在は古書店街、大学や予備校が多い。また、かっては小さな映画館や古い名曲喫茶などもあった。更に現在の靖国通りを東へ進むと「神田小川町」、この町の東が「八路小路・神田須田町」となる。江戸の頃は大名屋敷地であったが、現在ではスポーツ店が多い。小川町から北へ駿河台を廻ると「昌平橋」に至る。昌平橋は正保年間(1644~48)に、神田淡路町と外神田を結んで神田川に架けられた。室町時代から一口(いもあらい)橋と呼ばれていたが、5代綱吉の時代になって「聖堂」と「昌平坂学問所」が出来たことで、昌平橋と呼ばれるようになった。昌平坂学問所は明治になると「大学」と改称され、高等師範学校、東京女子師範学校となり、初の博物館が置かれた。現在ではそれぞれが筑波大学、御茶の水女子大学、東京国立博物館となっている。この橋から神田川の土手沿いを上るのが昌平坂、雨が降ると泥まみれの悪路であったと云う。元和6年(1620)神田川の切通しが出来、小石川方面からの水がこちらへ流れるようになった。現在では地下鉄丸ノ内線とJR総武線が神田川の上で立体交差、この下に架かるのが昌平橋である。明治37年、中央線の前身であった甲武鉄道が飯田町駅から御茶ノ水駅まで開業。同39年、甲武鉄道は旧国鉄に合併され、昌平橋駅が誕生する。すると同44年に中央本線が全通すると、昌平橋駅は名古屋までの始発駅となるが、同45年、近くに万世橋駅(旧交通博物館)が出来ると、昌平橋駅は廃止されてしまった。ひとつ下流の「万世橋」から眺めると、左側に赤煉瓦の高架駅舎であった旧万世橋駅跡が見える。この辺りの風景は、自然の地形と神田川、20thの鉄道がうまくマッチしている。

 歌川広重の「名所江戸百景」のうち「昌平橋聖堂神田川」では、雨降りしきる昌平橋付近の神田川の情景が描かれている。画面右手の急な昌平坂の白い練塀の内側が、古代中国春秋時代の儒教の祖、孔子を祀る「湯島聖堂」である。学問好きの5代綱吉が元禄3年(1690)に大学頭を務める林家の私塾でであったものを、上野からここ湯島に移転させ創建させた。それから100年余のちの、寛政9年(1797)松平定信は「寛政改革」の一環として、幕府直轄の学問所「昌平坂学問所(昌平校)」を開設させた。官学としての学問所になったことで、幕臣から大名藩士、更に江戸庶民たちまでここで学ぶことが許され、「学問吟味」と呼ばれる登用試験(国家試験)も行われるようになっていった。北へ進むと野村胡堂の銭形平次でお馴染みの「明神下」、日本橋から出発した中山道の坂を上ると「神田明神」。家康が江戸の産土神とした。祭神は平安時代中期、東国8ヶ国の独立を図った平将門と大己貴命、ために将門は古えより江戸っ子たちから人気がある。元禄年間(1688~1703)より、赤坂山王神社と隔年で「「天下祭り」を担い、9月15日、田安御門から江戸城に入り、上覧をえて竹橋御門より退出、日本橋川北側の日本橋、神田、本郷などの氏子町会を山車と神輿が練り歩いた。

 この辺りははやたらと坂が多い。神田明神から「湯島天神」へ向かう坂は「妻恋坂」と呼ばれる。明暦大火以前、この辺りは霊山寺という寺社地であったが、その後に湯島天神町にあった「妻恋稲荷」がこの坂に移ってきた。この神社の祭神は日本武尊と弟橘姫、古事記によれば相模国から走水を渡り、上総の国に入ろうとした際に暴風雨にあった。弟橘姫は夫の危機を避けようとして自ら海中に身を投じ、海の神様の怒りを鎮めたという。姫の衣や櫛が流れついたのが、墨田区立花にある「吾嬬神社」とされる。日本武尊は妻(嬬)の霊を慰め、食事をして二本の箸をさしておいたところやがて枝を伸ばして「連理の樟(くすのき)」になったという伝説まで残る。この坂を上りきると白梅で名が通る「湯島天神」、天満宮は正平10年(1355)学問の神様菅原道真を勧請、江戸の湯島天神は文明3年(1487)道灌が再建したものである。寛永3年(1626)の武江年表には「冬、境内に氷人石というものたつる、男女の縁組、迷子を訪ねるもの、その他祈願の旨を書してこの石の片面に貼す」と記されている。男女の縁組とあるため、迷子探しの他、現代でいう婚活もサポートしていたものと思われる。また、湯島天神は目黒不動、谷中感応寺とともに「江戸の三富」と呼ばれ、富突(富くじ)で有名であった。境内からは上野寛永寺や不忍池の眺めが良かった。

 「不忍池」は古代の縄文海進により、上野と本郷大地間に入り込んだ海水が、その後の海退によってできた水溜りが、池になったものと推定されている。池の名称についての由来は諸説ある。この池に篠と蓮が密生していたため「篠蓮=篠輪津」と呼ばれ、これらの植物で体が隠れてしまう程であったため、姿を忍ばずからきたともいわれていた。また上野の山の「忍ヶ岡」に対し、不忍池とされたとも言われている。僧天海は京の比叡山の麓琵琶湖に倣い、不忍池に竹生島になぞられた弁天島(中の島)を造った。夏にでもなると早朝池には、辺り一面蓮の花が見事に咲く。蓮の根は将軍家にも献上され、蓮飯として食された。こうした次第で、江戸の頃は不忍池の蓮の花と蓮飯を愛でに訪れる人も多く、池の周りには出合茶屋が多かった。と同時に、湧水と雨水と旧石神井川の流水で、水深1m弱までとなる不忍池は、江戸市内では貴重な溜池であったため、災害時の避難場所となっていた。

 上野山下、広小路の奥が「上野寛永寺」の広大な敷地となる。上野の山はかって「忍ケ岡」と呼ばれた。この地を拝領した藤堂高虎は、領地伊賀上野の名称をここに用いた。寛永2年(1625)東叡山円頓院寛永寺が建立された。年号を寺名にした例は、延暦7年(788)最澄が比叡山に建立した一乗止観院(延暦寺)がある。叡山延暦寺を京の鬼門の護衛にしたのに倣い、天海は天台宗東叡山寛永寺を江戸の鬼門に当てた。上野寛永寺は増上寺と並ぶもう一つの徳川将軍家の菩提寺、家康とその孫3代家光が日光東照宮へ、2代秀忠と江が増上寺に祀られた。寛永寺には4代家綱、5代綱吉、8吉宗、10代家治、11代家定、13代家定と御台所天璋院が眠っている。寛永寺が<西コース>の折り返し地店、再度、両国広小路や浅草寺裏の奥山と並ぶ繁華街の地である、上野山下(JR上野南口辺り)から、馬喰町の公事宿へ陽のあるうちの帰るのが江戸の旅の常道である。次回<北コース>は、浅草観音様を参拝、待乳山聖天、新吉原を覗き、墨堤沿いの木母寺、百花園、三囲神社と下町の名所、旧跡を巡ります。乞う御期待をばです。 江戸純情派 「チーム江戸」しのつか でした。

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