「江戸名所四日めぐり」④<西コース>㋑

 馬喰町の公事宿から「本町通り」を西へと向かうと、本町4丁目辺りは現在でも第一三共やアステラスなどの製薬会社がたちならぶが、江戸時代、漢方薬が主流であった時代も薬種問屋が軒を並べていた。街を歩くと薬草などを煎じた臭いが立ち込めていたという。古来より大和民族は薬好き、100万都市江戸の住民は、上は将軍様から下は長屋の八つぁん、熊さんまで、404の病に悩まされていた。仏教の教えによれば、人間の身体は「地、水、火、風」の「四大」から成り立っているという。それらが101ずつの疾病を持つ。これに四大を掛けると404の病となる。また、古代中国における考えでは、人間の五臓にはそれぞれ81の病があり、これに五臓を掛けると405病、ここから「死」を除くと404病、お隣中国とここだけは数字がピタッとあう。なお、404の病に収まらないのが金欠病と仮病、仮病は作病とも書き、まやものともいわれ、嫌な客を取らされた新吉原の遊女や、借金取りに追われた八や熊がよく使う手であった。これより更に始末の悪い病が、勝手に熱を上げている恋の病。これには万病に効くと謳った、本町の薬種問屋も手を挙げた。「惚れ薬 佐渡から出るが いっち好き」今も昔も特効薬はこれであった。

 本町は江戸の町割りで最初に開発された土地で、常盤橋御門から東へ1丁目2,3と振られていた。本町1~3丁目には江戸の町の治安と自治を任された、奈良屋、樽家、喜多村の町年寄り3人の役所兼自宅が置かれていた。南北町奉行が発令した「町触」は、彼らから名主、家主へ、更に大家(所謂長屋の大家さん)から最終的に江戸の町人口のうち、約40万が店子だと云われた八や熊たちへと、伝達手段が乏しかった江戸の隅々まで1日で伝わっていった。常盤橋御門の手前本町1丁目(現日本橋本石町2)には現在、日本銀行新館が道を塞ぎ、道行く人々ははその建物をぐるっと回らなければならない。江戸時代ここに金貨や銭貨を鋳造する「金座」が置かれ、両替所も置かれていた。ためにこの辺りは「本両替町」と呼ばれていた。最初に鋳造された慶長小判の金含有率は87%と、素晴らしい純度を保っていたが、江戸幕府の放漫経営と度重なる汚職、代々の将軍家や大奥・奥の婦女子による、垂れ流し的浪費によって幕府財政は悪化していった。これを補うために、幕府は金貨の改鋳という麻薬的な手法を思いついた。小判1枚の貨幣価値をそのままに据え置いたまま、それまでの金貨の金の含有率を下げた。5代綱吉の下に改鋳(悪鋳)された元禄小判は金含有率57%、この浮いた出目(あぶく銭)で元禄文化の仇花が咲いた。これ以来、旗本・御家人、江戸に勤番する藩士、職人、商人たちは、上がらない俸給、増えない手間賃に対して、確実に上がって行く物価上昇と、極度のインフレ生活に苦しめられ、この生活は幕末まで続いた。こうした生活を日本人の多くの人たちは現在でも続けている。日本銀行の新館が常盤橋御門の前に建てられた事や、本町の町はここから振られていた事は既に記したが、現在の本町は江戸橋北詰から上野方面へ1~4丁目と振られ、常盤橋御門跡前は日本橋本石町2丁目となり、しっかりと日本銀行本店に占められている。また、最近やっと日本橋上の高速道路の地下化が始まったが、日本橋川上を利用した安易な首都高など、明治維新以降の薩長やそれ以降の政治家たちが、江戸の歴史をないがしろにし、その遺産を食いつぶしている結果が、江戸の町を歩いてみると随所に見られる。ある外国人ジャーナリストは日本橋に架かった高速道路を見て「日本人は自分の顔に刺青をしているようなものだ」と評した。

 常盤橋御門から曲輪内へ入ると「大名小路」、日比谷入り江を埋め立てたこの地は皇居側が皇居前広場、日比谷公園、東京駅側が「丸の内」と呼ばれている。丸の内とは堀で囲まれた城の内側、城郭曲輪の内側を指し、地方によっては「堀の内」と呼ばれ、城の周りの広範囲な地域を指していた。江戸城丸の内は維新後は練兵場、その後は三菱財閥に払い下げられ三菱村、この村がビジネス街になるのは明治30年代以降である。丸の内は大手町、八重洲町、有楽町などの一部が、合併して誕生した町である。「夕立を 四角く逃げる 丸の内」江戸城の正門は「大手門」、慶長11年(1606)藤堂高虎が縄張り、元和6年(1620)伊達政宗が延べ42万余の人夫を使って修復、警備には10万石以上の大名が当たった。大名、旗本たちの登城は朝五っから四っ(am8:00~10:00)、大勢の家来たちは殿様が下城するまで門外で待機、この風景を観に武鑑などをもってやって来る、野次馬たちを相手に行商人たちが商売した。大手門から内堀を、マラソンコースと同じように左回りに竹橋方向に上がっていくと大奥、奥の婦女子の通用門であった「平河門」となる。別名不浄門と呼ばれた。元禄14年(1701)3月14日、播州赤穂浅野内匠頭は松の廊下で刃傷事件を起こして、さしたる取り調べもないまま、この門から一関藩田村右京大夫の屋敷に移され即日切腹、5万3千石のお家は断絶、家臣は解雇された。また、正徳4年(1714)江島生島事件が発生した。大奥総取締役江島が木挽町の山村座からの芝居見物の帰途、門限に遅れ問題となった事件である。この事件で江島は信州高遠へ配流、山村座は廃座となり江戸歌舞伎は三座となった。また、これに連座した後藤縫殿助など1,000名余が処罰された。これには6代御台所天英院と7代家継生母月光院の対立が影にあったとされている。

 「竹橋御門」内には家康の孫、2代秀忠の長女千姫が住んでいた御殿があった。千姫は秀吉の遺言により6歳で秀頼に輿入れ、元和元年(1615)「大坂夏の陣」で豊臣家滅亡、千姫は桑名城主、本多忠政の嫡男忠刻と再婚、夫を播磨15万石姫路城主まで押し上げたが、その夫も若くして病死、またも未亡人となってしまった千姫は、娘勝姫を連れて江戸に帰ってきた。生涯を通して弟3代家光の政治を助け、秀頼の遺児、泰姫(天秀尼)を鎌倉東慶寺に入れその生涯を見守った。竹橋御門から盗賊改め方の御用屋敷があった「清水門」、更に江戸城の配膳を賄った役人たちが集住していた「台所町」に近い、日本橋川に架かる「俎板橋」を渡ると、左側の内堀は「牛ケ淵」となる。「昔、銭積みたる車、牛と共に落ち、牛も車もついにあがらず」として名づけられた牛ケ淵は、家康入府直後「神田川」や「玉川上水」などの上水設備が完備していなかった時代、飲料水の水源地として俎板橋の九段下から「田安御門」までの内堀で、西側の水位の高い「千鳥ヶ淵」と地下の水門で繋がっていた。8代吉宗が、家康に倣って創設した御三卿のひとつ田安家があったことからこの名があるのが田安御門である。最近までは春にでもなると、北の丸公園から出ると、両側の淵に垂れ下がった桜の古木の枝ぶりが見事であったが、この2,3年は枝の剪定が切り込み過ぎて、バランスの欠いた風景となっている。さて、西のコースの折り返し地点が「九段坂」である。山の手と下町を繋ぐのが坂であるとするならば、この九段坂は江戸の町の中でも1番大きく急な坂であった。当初は、視察に訪れた家康を案内した飯田喜兵衛に因んで飯田坂と呼ばれていた。宝永6年(1709)になると、急な斜面であった坂道の北側に、九段の石段が築かれ御用屋敷も建てられた。この坂の上に立つとその頃はきれいな月を見上げることが出来たという。九段坂の北は「冬青木(とちのき)坂」、この坂から北へ下がると「ニ合半(こなから)坂」、この坂から日光男体山が半分ほど見えたという。富士山が十合だとすると、日光男体山は五合、その半分は二合半、江戸っ子は計算が速い。また、別説では日光の半分で日光半、これが転訛して二合半、これも辻褄が合う。江戸の子供たちはおとうにいわれ、この二合半の徳利を下げて秤売りの酒屋に、地酒を買いに行かされた。さて、次回西コース後半戦は、九段坂から神田明神、湯島天神、上野寛永寺と御利益めぐりとなります。お楽しみにです。





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