「江戸名所四日めぐり」③<南コース>㋺

 お江戸日本橋から東海道の最初の4丁を「日本橋通」といい、西川や白木屋呉服店(現コレド日本橋)など、江戸の商業の中心地であった。日本橋の北側、伊勢商人の町と対照的に、こちらは近江商人の町である。白木屋は寛文5年(1655)近江長浜の材木商大村彦太郎がここに店を構え、小間物屋から呉服屋に発展させた。最近までは名水の井戸として知られ、三井越後屋、大丸と並んで江戸三大呉服店であった。日本橋交差点を右折すると呉服橋御門、廓内に「北町奉行所」があった。数寄屋橋御門内の「南町奉行所」と共に江戸の治安を護った。両所で働く与力・同心たちは、八丁堀に組屋敷を拝領、そこから通ってきた。ここより少し北側の常盤橋御門辺りが「日比谷入り江」と呼ばれた、新橋辺りから大きく入り込んだ遠浅の海の最奥部であった。その西端は江戸城内堀、東端はJR線辺りで、幅約800m、深さ1,5mほどであった。この入り江には海苔を養殖するヒビが沢山生えていたことから「日比谷入り江」の名がついたと云われる。江戸に入府した家康は、三浦按針にこの入り江の処遇を問うた。按針答えて曰く、この入り江に外国船が入り込めば、江戸城は大砲の標的になると。「大坂夏の陣」で自分が仕掛けた大砲で、大坂城が炎上したことを思い出した家康は即、道三濠を掘り上げた土と神田の山の土をもってこの入り江を埋め立てた。この埋め立て地はのちに「大名小路」と呼ばれ、幕府政治を担う譜代大名たちや外様の大大名たちの屋敷地として与えられた。現在の日比谷公園、皇居前広場がここにあたる。

 江戸城正門は「大手御門」、正面の高麗門と櫓門からなる枡形門を形成、外部からの攻撃に備えた。江戸城全体の面積は約115万㎡、その内、昭和43年に解放された本丸(表、中、大奥)二の丸、三の丸、天守台などを含む東御苑は約21万㎡、昭和44年には北の丸15万㎡も公園として解放された。因みに天守台は11mの高さ、これに五層40mの天守閣が乗っていた。「明暦大火」以降、武断政治から文治政治に政治方針を転換した幕府は、天守閣の再建を見送った。現在、千代田区でこの構想が持ち上がっている。内堀通りに沿って南に進むと「辰ノ口」。和田倉門外に設けられ、江戸城の余水を内堀に落としていた。大手門が表の玄関口とするならば、和田倉門は海の玄関口であった。「ワダ」とは古代用語で海を意味し、外洋からの物質がここに集められていた。寛文6年(1666)辰ノ口近くに朝廷からの勅使の宿泊先である「伝奏屋敷」や、現在の最高裁判所にあたる「評定所」が置かれた。評定所は老中、大目付、目付の他に、寺社、勘定、町奉行らで構成され、「伊達騒動」「安政の大獄」「桜田門外の変」などを重大案件を審理した。

 浅草観音と並ぶ東京見物のメッカ「二重橋」は、正式にはよく見える眼鏡橋ではなく、奥の鉄橋を指す。その橋がまだ木橋であった頃、堀が深く橋の上に橋を重ねた事からこの名がついたという。この橋の正式名称は正門鉄橋、眼鏡橋を正門石橋という。この門の南は桜田門、正式名称は「外桜田御門」、太田道灌の家紋入りの瓦がある桔梗門は「内桜田御門」という。安政7年=万延元年(1860)3月3日、憲政記念館辺りにあった。近江彦根藩の上屋敷から駕籠に乗った大老井伊直弼は、この門外で水戸浪士らに襲われ絶命した。世にいう「桜田門外の変」である。この事件により幕府の権威は地に落ち、倒幕の動きが加速された。尚、内堀に影を映す江戸城の石垣は、伊豆半島から運んだものが多い。家康などが命令した「天下普請」によって築かれた城壁は「切り込みはぎ」といわれる工法などで積み重ねられている。年代によって異なる積み方をしている箇所もあり、その違いを見つけるのも楽しい。

 内堀通りを横断、日比谷公園の西側は「霞ヶ関」であり、現在でも官庁街である。西へ上る坂道の両側には大きな屋敷が隣あっていた。現在の総務省と国交省の地には安芸(広島)浅野家、外務省の地には筑前(福岡)黒田家の上屋敷があった。この間の道は古の時代、街道筋にあたっており、ここに関所が設けられていた。京から見れば江戸は霞の彼方であった。霞ヶ関の名称はこうして名付けられたと云う。この地から更に西へ進めば将軍家の産土神「山王日枝神社」。神田明神と並んで天下祭りのひとつ、日本橋川を境に南は山王日枝が、北は神田明神が氏子を分け合い、祭礼も隔年で山王祭りは6月15日を中心に、神田祭はGWあとの週末となっている。「虎の御門」を出ると右手に江戸時代初期、飲料水として使われた「溜池」を通過すると、有馬家の「水天宮」と共に、江戸の民間信仰の双璧をなしたとされる讃岐京極家の「金毘羅宮」に参拝、愛宕山下通りを南に進むと右手に、江戸四方を見渡す事ができた標高26mの「愛宕山」が見えてくる。正面の男坂は出世の階段ともいわれ、石段は八十六段、勾配は46度あるから、登りながら後ろを見ない方がいい。京から勧請した愛宕権現は火伏の神様として御利益があった。山頂には色々な歴史が詰まっている。井伊直弼を襲った水戸浪士たちはその朝ここに集結、最後のミーティングをした。また、勝海舟は西郷隆盛をここに呼び、江戸の街を見せて江戸無血開城の必要性を説いた。山麓東側は第2の大名小路と呼ばれ、元禄年間(1688~1703)大目付を務めた仙石伯耆守の屋敷もここにあった。赤穂浪士が泉岳寺へ凱旋の途中、吉田忠左衛門と冨森助右衛門の二人が、事件の顛末を報告するために仙石家に立ち寄った。また、泉岳寺で亡き殿へ報告をすませた浪士たちもここに集結させられ、四家に振り分けられた。浪士たちの最後の別れの場所となった。愛宕下通りを更に南へ進むと、「御成門」から徳川家の菩提寺「増上寺」である。2代秀忠と江夫婦、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と妻和宮が眠っている。家康は駿府から日光東照宮に葬られ、ここで葬儀が行われ、東照大権現として神様となった。

 増上寺が南コースの折り返し地点である。芝は「大門(だいもん)」、吉原唯一の出入口は「大門(おおもん)」と呼ぶ。め組の喧嘩や生姜祭りで有名な芝神明に参拝して、東海道を日本橋へ向かう。銀座の交差点は、現在は三越や和光、江戸時代は南側を尾張町と呼ばれ、四っ角は尾張町交差点と呼ばれていた。恵比寿屋、亀屋、布袋屋といった縁起のいい屋号の呉服屋が並んでいた。東側は銀貨の鋳造や両替を行う「新両替町」と呼ばれたひなびた工業地帯であった。現在の晴海通りを東に向かうと本願寺の大屋根が見えてくる。本願寺は親鸞を開祖として浄土真宗を説く。信長の時代、木津川河口での大坂本願寺との闘いを目のあたりに見た家康は、本願寺の勢力を東と西とに分断した。築地本願寺は浄土真宗本願寺派本願寺築地別院と呼ばれていた。だいぶお天道様も背中の方に傾いてきた。明るいうちに宿を目指そう。次回「江戸名所四日めぐり」は、<西コース>九段坂から神田明神、湯島天神、上野寛永寺などをめぐります。 江戸純情派 「チーム江戸」でした。




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