「江戸名所四日めぐり」➁<南コース>㋑

 江戸時代、江戸っ子たちが行きたいところベスト1は「お伊勢参り」。幕末期になると、「ええじゃないか」「ええじゃないか」と杓子と莚を持って集団で「お陰参り」をした。この伊勢神宮の他にも、日本には魅力的な神社仏閣、観光地や温泉地は沢山あった。その筆頭に数えられるのが、100万都市江戸の町である。江戸の町の何処からでも霊峰富士が顔を覗かせ、大川(隅田川)端の四季折々の自然や遊びに行事。浅草観音や上野寛永寺、芝増上寺など巨大神社仏閣に参拝に七福神巡り、梅屋敷や百花園などの自然庭園や、九尺二間の長屋の奥にまで飾られた草花を観察することも出来た。更に江戸歌舞伎や新吉原に見られた、先端ファッションにも触れ、天下祭りと云われた神田明神や赤坂山王の祭りは隔年、深川八幡や三社祭など、江戸の祭りは粋な江戸っ子たちの心を捉えて離さなかった。こうした江戸の自然と文化を、地元の江戸っ子たちは暇を見つけては、わいわいがやがやと連れだって散策に出掛けて行った。一方、江戸から離れた田舎暮らしの人たちも負けてはいなかった。お伊勢参り同様に、日常生活とかけ離れた江戸の町に興味を抱き、一生に一度は江戸のtasteを味わってみたいと、虎視眈々とその機会を狙っていた。では江戸へ出掛ける方便は何とすべいか?現代でも日本人の心を捉え人出が絶えない、今では馬鹿陽気の円安進行で日本人より外人さんの方が多い「浅草観音参り」とすれば良かった。観音様を拝み御利益を受け、毎日のように開かれている祭りを見物して、江戸を食し江戸の香りを身につけて、束の間のCityLifeをenjoyして帰っていった。その人たちに効率よく江戸を紹介したのが、今回往復約3里で巡る「江戸名所四日めぐり」である。

<南コース>江戸時代は先ず第1日目を恵方(縁起がいいと云われる方向)にとり、時計回りにめぐって行くことが吉事とされた。今日は先ず「朝昼晩 三千両の落ちどころ」と謳われた江戸の繁盛地、江戸っ子たちにも興味深い南コースに向かう。馬喰町の旅籠街からにしに向かう途中人形町通りにぶつかる。そこを左へ折れ南下すると、右側に昼の千両が落ちた「芝居町」が見えてくる。その頃の芝居興行は明六つから暮れ六つ(am6:00~pm6:00)現在のスタバコーヒーの脇の道が、芝居町の真ん中の通路に当たる。この道は西の東堀留川まで続いていた。慶長8年(1608)出雲の阿国が、京の五条河原でヤヤコ踊りを踊ったのが歌舞伎の始まりだとされている。その側で踊っていた猿若(中村)勘三郎が、江戸中橋南地辺り(八重洲交差点辺)で櫓を上げたのが江戸歌舞伎の始まりである。寛永11年(1634)人形町と呼ばれた街の一角、堺町に中村座、葺屋町に市村座が櫓をあげ、人形浄瑠璃やからくり人形の小屋も集まり「ニ丁町」が起ちあがった。この他にも、三十間堀の木挽町にも山村座、森田座が櫓をあげたが、正徳4年(1714)の絵島生島事件で山村座は廃座、残る江戸三座は天保13年(1842)水野忠邦による「天保改革」で、浅草寺裏浅草暮踏町へ移転していった。芝居町の東側に位置していたのが、夜の千両を稼いだ「元吉原」、正確には元吉原は昼営業であったから、浅草田圃に移転した不夜城「新吉原」ということになる。江戸の初期、あちこちに点在していた廓をここにまとめたのが小田原武士であった庄司甚右ヱ門である。慶長18年(1613)当時、葦や葭が生えていた湿地帯を埋め立て、縁起を担いで「吉原」と命名した。「大門(おおもん)通り」を中心に左右2丁(1丁≒109m)、吉原唯一の出入口,北の大門から2丁四方、14400坪の江戸の悪所が起ちあがった。廓を取り囲むのは、お歯黒どぶと東の浜町川である。明暦3年(1657)江戸の街2/3を焼き尽くし、10万余人の犠牲者をだした「明暦の大火」を機に、浅草寺裏浅草田圃へ移転、昭和33年の「売春禁止法」の成立、施行まで340年、女郎哀史の歴史は続いた。

 芝居町、元吉原から西南へ芳町、小網町を抜けると「江戸橋」日本橋川左岸となる。ここから日本橋北詰東側、現在チョイメタの乙姫様が鎮座している広場までが、朝の千両を稼いだ「日本橋魚河岸」である。魚河岸はここの他に、対岸の「四日市」楓川沿いの「新肴場」昔からある芝の「雑魚場」があった。日本橋魚河岸は幕府に献上した残りの漁獲物を、ここで舟板に並べたのが始まりだという。本小田原町、按針町、本舟町などが、現在の三越新館前の通りまで拡がり、魚市場を形成していた。ここに芭蕉の弟子、鯉屋市兵衛(杉山杉風)の屋敷があり、芭蕉はここで宗匠への自立を宣言した「発句也 松尾桃青 宿の春」。日本橋魚河岸の売れ筋商品は何と言っても初鰹。鬼平の時代、親子3人が年間15両もあれば生活出来た時代に、鰹1匹が1両から1,5両の馬鹿値を付けて売れた。「初鰹 飛ぶや江戸橋 日本橋」userは高級料理店、歌舞伎役者、それに手間賃のいい大工や左官の職人たちの併せ買い、大店は見向きもしなかった。江戸っ子たちは見栄と意地のため、「初」という字には弱かった。

 現在の中央通りにあたる「通町筋」が日本橋川をまたいでいるのが「日本橋」である。天正18年(1590)江戸に入府した家康は、地方の寒村であった江戸の町造りを開始した。慶長8年(1603)幕府を開いた年に日本橋は創架された。長さ37間4尺5寸、幅4間2尺5寸、躯体はケヤキ欄干はヒノキで造られた木橋であった。橋の欄干に擬宝珠があるのは幕府建造物の目印、民間では京橋、新橋に載せられていた。この橋の上に立つとおよそ西南30度、約100㌔前方に、富士のお山が江戸っ子たちに挨拶をしていた。霊峰富士は庶民の憧れであり、信仰の対象であり、その手前に広がる江戸城は武士の象徴であった。現在の石造りの橋は明治44年、東京府の飛躍繁栄を象徴した麒麟の像、その守りを象徴した獅子の像に飾れた日本橋は、震災戦災に耐え、数年前目出度く100歳の長寿を迎えた。この橋の中央に埋まっているのが「日本国道路元標」である。家康は日本橋を五街道の基点と定め、五街道を始め全国の街道を整備した。この元標のレプリカは日本橋北詰西側で、車を気にせずに目前で眺めることができる。「日本橋 五街道の 名付け親」。次回はこの日本橋から江戸城曲輪内に入り、内堀沿いから、桜田門、愛宕山、芝増上寺へ向かいます。乞う御期待。「チーム江戸」




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