令和メルマガ「江戸名所四日めぐり」①

 ♪これこれ石の地蔵さん 西へゆくのはこっちかえ 黙っていてはわからない~。江戸は八十八夜を過ぎ、目には青葉山ホトトギスの季節になってきた。野山や里の草花を愛で、樹の香りを身体全体に浴び、名所旧跡を巡り、神社仏閣を参詣するには、もってこいのいい季節になってきた。さて、江戸っ子たちの楽しみは、九尺二間の狭い長屋から飛び出し、思い切り初夏の陽の光を浴び大気を吸って、花を愛で軽口を叩きながら、風の吹くまま気の向くままに歩き廻る事であった。花見に菊見に雪見と、季節ごとの花を愛で、神社仏閣の開帳や縁日の参詣、六地蔵や七福神巡り、大川端の夕涼みに花火大会、歌舞伎や芝居見物などなど、朝も明けきらぬうちから起きだし、近所の人間を起こして、大騒ぎをしながら日帰りの旅に出かけて行った。これにも飽き足らぬとなると、旅駕籠に着替えを詰めて、江ノ島の弁天様や鎌倉八幡宮、箱根の湯めぐり、富士講や成田山や大山詣でに出かけて行った。箱根などへの湯治は7日位の滞在で、大工の手間半月分、湯入り講があって、これに参加していると3年から5年に1度、番が回ってきた。

 江戸時代も次第に治安が安定してゆき、参勤交代の制度化や伝馬制が整備され、交通量も増大しそれに伴って街道筋や旅籠も整備、促進されていった。お江戸日本橋から伸びた五街道は、大街道は道幅6間≒11m、小街道はその半分。江戸幕府は街道筋の大名たちに、畳の厚さに砂利、小石を敷かせ、街道を整備するように命じた。また、旅専業の宿が街道筋に軒を並べるようになるのは、元和年間(1615~24)の頃、参勤交代が確立した寛永12年(1635)以降になると、特に目立って多くなっていった。参勤交代の大名たちは陣屋の本陣に、家来たちは脇本陣、家老宿に宿泊した。享保3年(1718)8代吉宗は陣屋の旅籠1軒につき、2人までの飯盛り女(宿場女郎)を認めた。「飯盛りも 陣屋くらいは 傾ける」と、新吉原や岡場所の向こうを張って、旅籠経営の一助となった。一般庶民は「旅籠」、この旅籠の語源は、旅人たちが食料や、衣類、身の回り品を旅籠(たびかご)に入れて持ち歩き、これを泊まる宿の入り口にぶら下げておく習慣があったことから、旅籠の宿と呼ばれるようになったともいわれている。朝晩2度の食事がついて風呂に入って、1泊150文(1文≒¥25)。宿に入ると先ず足を洗ってくれ、風呂、食事となる。現代でも自宅へ帰ると、同じような手順となる。従って帰宅した亭主は「風呂、飯、寝る」の三言で事が足りる。しかし、奥さんの話相手をしないと、その内疎外されてくる。話は外れたが、それでも節約を努める人々は、食事も付かない風呂もない「木賃宿」に泊まった。こちらは素泊まりが1泊30文前後であったから、現代の金に換算すると約¥750也、18きっぷ愛好者でもこうはいかない。

 江戸も中期以降、治安は益々安定、庶民層は懐具合も豊かになっていったが、それでも弥次さん喜多さんは知り合いと水盃を交わし、芭蕉は住み慣れた深川の庵を人に売って「おくのほそ道」に旅立っていった。息子に代を譲って、楽隠居となった所謂町の御隠居様の大旅行は、あくまでも社寺の参拝を名目として、町名主に「お伊勢参り」の鑑札を申請、本音の物見遊山の旅に出かけていった。因みにお伊勢参りが本格化するのは宝永2年(1705)から、明和8年(1771)にはお陰参りの人々は24~25万人に達した。大きな2~3ヶ月の日程で予算は200から300両を用意、為替という手形を行く先々の両替商で現金化しながら、荷物持ちの小男を従えてお江戸日本橋を出発した。留守を守ってくれる奥さんや可愛い孫への、その土地土地の土産は飛脚便(宅急便)を利用して、その都度江戸へ届けられた。1日の行程は原則7~8時間の歩行、江戸の旅は現代でも通用するが、朝は暗いうちから立って、お天道様がまだいるうちに宿に入るのが鉄則。現代のビジネスホテルはam6:30からのMorningが一般的だが、JRなどの都合上もう30程早いと助かる日も多い。江戸の旅人たちは健脚、西へ上る場合は、日本橋から小田原まで(約84㌔≒21里)までその日のうちに稼いで、箱根越えに備えた。お伊勢参りの必須立ち寄り場所は、富士山、熱田神宮、京都御所と神社仏閣、奈良の大仏様、西国三十三所、天橋立、安芸の宮島、讃岐の金比羅山と盛り沢山、帰り道は善光寺まで足を運んだのが、江戸在住の江戸っ子と呼ばれる人たちの旅であった。

 お上がおわした京に対し、江戸は地方都市であったが、その地方都市江戸に来る「お下りさん」の目的は、先ずは浅草の観音参りを主目的とした、江戸の町観光巡りであった。他に勉学や剣の修行のためや行商、商家や武家への奉公、更に一茶のように農閑期の出稼ぎ労働者として、椋鳥ように群れをなして江戸へ集団で疎開して来る人たちもいた。また、年度末には、自分たちが抱えた問題troubleを、浅草御門内側にあった郡代屋敷に訴えに来る人々も結構存在した。こうした人々が利用した宿を「公事宿」という。当時1泊2食付きで248文、やはり江戸中心部の宿泊費は高い。公事宿とは江戸時代、訴訟や裁判のため地方から江戸や大坂の郡代屋敷に出てきた人々を、宿泊させた宿屋のことをいい、公事人宿、出入宿、郷宿とも言われた。江戸の場合、多くは神田や日本橋馬喰町辺りにあった。古来より大和民族は土地を大事にした。遠く鎌倉時代、幕府を開いた頼朝は、広く政務を執り行う「政所」、武士を統括し軍事を執り行う「侍所」、「問注所」といった役職を整えた。問注所は訴訟、特に土地に関する訴訟を取り扱う部門であった。鎌倉時代の武士たちは、自分の土地に関する権利を、完全に権威者から認めてもらう事にあった。幕府側がこれを認める代償として、守護地頭は幕府に奉公=いざ鎌倉に向かった。鎌倉武士団は「一所懸命」に自分たちの土地のためにしがみつき戦った。その武士たちの欲求を具体化したのが鎌倉幕府である。結果、鎌倉武士団を代表する頼朝は、大和朝廷から独立した機関を立ち上げる必要があった。この考え方、執着心は江戸時代にも引き継がれ、現代になってもその衰えは見せていない。

 公事宿では訴訟のための書類作成など手続きの代行、訴訟の弁護なども行った。宿泊客は自分たちの裁判の合間に、江戸の名所、旧跡を日帰りで歩いて見て廻った。こうした人たちを当て込んで、専属の町案内人を抱えた宿もあった。馬喰町の刈豆屋茂右衛門は、ガイドブックを引き下げて、昼間なら250文、夜間なら130文でガイドを引き受けた。使われた資料は折りたたまれた江戸切絵図、江戸名所図会や名所江戸百景などの他に武鑑なども使われた。「江戸名所四日めぐり」の参考資料とされたのが、「江戸見物四日免ぐ里」。これは1枚ものの観光案内出版物で、版元は江戸通油町の鶴屋喜右衛門、出版時期は天保年間(1830~43)以前だとされている。「江戸四日めぐり」に参加するのは、江戸っ子というより「お上りさん」、江戸風に云えば「お下りさん」。日帰りの旅は、その年の恵方=縁起の良い方向を第1日目に取り、その方向から時計回りに1日往復3里、江戸の町の観光を楽しんだ。その年の恵方が南なら馬喰町から日本橋、大名小路から愛宕山、増上寺を回って築地本願寺に立ち寄るコース 2日目は西コース。本町から先ず九段へ向かい神田明神、上野寛永寺まで足を伸ばして戻ってくる。3日目は馬喰町から浅草寺、新吉原、木母寺から南下、百花園から三囲神社の北コース。最終日は両国橋を渡って回向院、深川八幡へ向かい、木場、亀戸天神を回る東コースとなる。次回チーム江戸HPは、その四日めぐりを順にめぐっていきます。


 


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