「江戸災害史」9宝暦の治水と薩摩隼人の慟哭<後編>

 江戸時代を通じて、歴代将軍は幕府領(天領)を拡大し、幕府財政を安定させるため、全国の諸大名に徐封、減封を繰り返してきた。紀州徳川家から将軍となった8代吉宗はこれらを踏襲、南の国に位置する雄藩薩摩島津家を締め上げようと、先ず婚姻によって島津家との血のつながりをつけ、同時にそれに関わる出費を多大にさせ、財政面からの体制の弱体化を図ったが、この目論見は外れた。何度も婚姻予定者が早世したため御破算になったからである。天下の将軍でも、人の生命まで延長させることは出来なかった。片や、濃尾平野に領地をもつ尾張徳川家の宗勝は、島津家が所有しているであろう財力で、自領を水害から解放させようと目論見、吉宗の子、9代家重に働きかけた。宝暦3年(1753)の年も押し詰まる12月28日、9代家重は薩摩藩主島津重年に、正式に木曽川、長良川、揖斐川の美濃三川の川普請を命じた。当時、薩摩藩には66万両の借入金が残っていた。

 薩摩国鹿児島島津家は、始祖忠久が薩摩の地に1歩を印して以来、連綿として700年この土地を動かず、武士も領民も同じ様に生活を共にしてきたお国柄であった。鎌倉時代、頼朝によって守護・地頭制が成立、室町、戦国時代とその命脈が保ちえたのは、かって数百を数えた守護大名たちのうち、薩摩の島津氏一人に過ぎない。大名淘汰は江戸時代、徳川幕府によって最も激烈を極めた。幕府は諸々の規制を設け、隙あらば諸大名に徐封、減封を強いてきた。関ケ原の戦いで勝利を得るべく、また、2代秀忠の関ケ原への遅参によって、西国大名たちに盛られた大幅な加増を取り戻すべく、家康、秀忠、家光の3代の間だけでも、数にして213家、石高にして1630万石の大名たちが取り潰され、徐封の処分を受けた。こうした厳しい取り潰しの中で、薩摩藩は九州の南端という地の利も手伝って、今日まで生きながらえてきた。700余年の間、君臣間の情愛、郷土愛が育まれてきた。主君のためならどんな困難も辞さない、命令には背かないという、ピュアな士風が育て上げられていた。こうした環境の下、今回の幕府要請に対する我が藩の対応には、納得いかないものがあった。「御手伝普請を甘受して、藩財政がたちいかなくなる位なら、薩摩77万石をもって800万石に立ち向かおう」と主張する古武士たちもいた。一同を前にして藩主重年は顔を伏せたまま「頼む」と一言云った。「今日まで続いてきた島津の家を自分の代で潰す訳にはいかんのだ」居並ぶ武士の間から泣きながら叫ぶ声がした「そうだ、家のために捨てる命なら、殿の望む通りとことんやって死ねばよいのだ」。3日後普請場に向かう役人の氏名が発表された。惣奉行、勝手方奉行平田靱負正輔、副奉行、大目付役伊集院十蔵久束 他13名。小奉行など200余名。足軽、中間、小者など600余名、合わせて総勢947名がこのプロジェクトに参加した。藩主重年は島津薩摩守の名で、幕府老中宛てに請書を急送した。死の宣言にも等しい幕命を「有難き仕合せ」と受け、祝詞さえ述べる矛盾に耐えた。しかし、この書欄はこれからの苦難の途に比ぶれば、まだ単なる入口の紙切れであった。

 宝暦4年1月16日、総奉行平田靱負は藩士を現地に派遣した。第1期工事は破壊された堤防などの復旧、第2期工事は輪中の南部を4っの工区に分けて川筋の修復などを行う事とした。この監督に幕府側から、勘定奉行が就任、美濃郡代や代官がこの下に就き、幕府目付などが直接現場を監督した。美濃三川の治水の根本計画は、三川を完全に分流することで、濃尾平野における洪水の根本原因を取り除こうとするものである。相次ぐ氾濫の主たる原因は、木曽川流域の土砂堆積が激しいため川床が高くなり、この為三川が合流する河口辺りでは、他の川の流れも緩慢となり、大雨が降ると洪水の原因となっていた。これに対処するため、川の中に「導流提」を築き、三川を分離、独立しようと図った。しかし厄介なことに、美濃三川の川床の高さは、三川とも高さが異なっていた。西寄りの揖斐川が最も低く、続いて中央の長良川、東端の木曽川と次第に高くなっていた。これは濃尾平野の地形そのものが、東から西へと大きく傾斜していたためである。だが、野分などといった台風、暴風雨は、決まって西から東へと移動してくる。従って最も西側を流れる川底が1番低い揖斐川が真っ先に増水し、続いて長良川、木曽川と増水していく訳であるが、枝川によって三川はお互いに通水しあっていた。結果、揖斐川の増水は長良川の増水を招き、長良川の増水は木曽川の増水となった。そうなると三川とも容易に水嵩を減少しないばかりか、やがて耐えかねて堤は決壊、民家や田畑に氾濫した。これを防ぐには三川がお互いに通じている枝川を閉じて、ひとつひとつの川を独立した流れの河川にする必要があった。この考えを進めていたのが、先に述べた美濃郡代井沢弥惣兵衛であった。弥惣兵衛は関東流、甲州流の長所を取って新しく紀州流治水法を創始し、信濃川、大井川、淀川などの治水に貢献した。彼が「公儀預り」として美濃へやってきたのは享保20年(1735)、僅か5ケ月の任期の間に美濃三川の河相を調べ上げ、工事の必要性を幕府に訴えたが、時の幕閣たちは首を縦には振らなかった。そのうち弥惣兵衛は病没、それから宝暦4年は16年目になっていた。弥惣兵衛の残された計画書をもとに、薩摩藩の御手伝い普請をして、やっと治水工事が始められる事になった。

 治水工事は卯の中刻(am7:00)からpm申の正刻(pm4:00)まで、地元の村々が請け負う形で進められたため、周辺の村々から人足を雇い入れた。村方請負を幕府側が勧める理由は、町人たちに工事を請け負わせると、儲けを優先にして手を抜くことが多いが、輪中の村々に任せれば、自分たちのことであり、仕事も丁寧だし支払いも地元に落ちることとなり、百姓たちの救いにもなるという。しかし、反面欠点もあった。①入札よる競争ではないため請け負い値段が高くなる ②手間賃は女、子供まで一律で、自分たちの村の分は一人銀1匁7分、他所への助っ人分は2匁であった。この方式では大人の男子の負担が大きくなるため、その分要領よく怠ける者が多くでた ③技術的な面で農民たちは町方人足より数段と劣っていたため、工事終了まで日数がかかった。こういった次第で予算は当初の10万両を超え40万両余に上った。薩摩藩はこの40万両の殆どを借入金で賄った。更に打撃となったことは、足掛け2年の工事期間中、88人もの犠牲者が出たことである。宝暦4年8月薩摩工事方で赤痢が発生、半数以上がそれに感染、数十名が死亡した。また、藩士2人が担当していた現場で、3度に渡り堤が破壊された。その指図をしていたのが幕府の役人たちであり、明らかに嫌がらせ行為であった事が判明、2人はその行為に対して抗議の切腹をして果てた。こうした幕府側の嫌がらせ的行為は続いた。 ①普請情報の秘匿 ②村役人が手伝ってもらっている、薩摩藩の普請役人を饗応する際には一汁一菜とすること ③薩摩の人間に蓑や草履を安く売らないことなど、幕府側は薩摩の藩士たちに、著しく意図的な冷遇措置を取った。こうした過酷な状況の下で、工事期間中に自殺者54人、病没者34人が出、犠牲者総計88人に上った。   宝暦5年(1755)3月28日、第2期工事完了。4月16日から5月22日まで幕府目付による検分が行われた。5月24日、平田靱負はその旨を国元へ報告した。幕府が帰国許した翌日の5月25日早朝、惣奉行平田靱負は美濃大牧の本小屋で自刃した。多くの自害者と病死者を出し、膨大な工事費を費やし、多額の借財を抱える事になった責任を取った形となった。

   「住み慣れし 里も今更名残にて 立ちぞわずらう 美濃の大牧」

 

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