「江戸災害史」9宝暦の治水と薩摩隼人の慟哭<前編>

 江戸時代、一級河川の洪水が相次いだ。幕府財政が深刻な事態に直面していたため、幕府は国役普請に「御手伝普請」を組み込むことで、自身の財政負担を軽減しょうとした。御手伝普請とは、本来、幕府が行う普請を大名たちに手伝わせるもので、戦時の軍役と同様、領土安堵など将軍の「御恩」に対する大名たちの「奉公」と位置づけられていた。これは将軍と大名たちとの主従関係に基づく課役であり、避けて通れない公的な性格のものであった。   御手伝普請を本来負担すべき国役普請に組み込むことによって、最終的な幕府負担の軽減を図る事を意図した。災害が頻発する中で、幕府は自己の財政負担を軽減しつつ、公儀の機能と面子を保つために、全国の国持大名たちに工事を命じた。体のいい責任転嫁であり、大名たちの藩財政を疲弊させる目的もあった。しかも、享保年間(1716~35)頃までは除外されていた20万石以上の国持大名も、災害普請の対象に組み込まれたため、公儀の機能と建前上の面子は全国的に及ぶことになった。普請の主なる対象は、城郭、河川、寺社、御所などで、江戸初期は江戸城など城郭が主であったが、中期以降は河川の治水が主となっていった。公儀の基本的政治体制が、明暦の大火後辺りから武断政治から民治政治に、治安から民政に移行していったためである。治水工事は全体を幕府が一元的管理の下で遂行、総費用も1時的に幕府によって立替払いされた。ここまで名目上、幕府の負担となっている。問題はこれから先である。幕府は総費用の8割強を、助役に命じた国持大名に負担させ、更に残りの2割弱、18%が国役割され、この部分を治水事業地域の村々が負担する。これが国役負担と呼ばれるものである。従って本来、国=幕府がやるべき事業の98%が御手伝を命じられた国持大名(県)と、地元の村々(地方自治体)が負担、政府=国は残り2%で、管理と称して口先介入を行い、名目だけを保ったのが当時の現状であった。

 寛保2年(1742)8月1日、関東各地で洪水が発生、江戸城下も浸水に見舞われ溺死者は2千人余に上った。幕府は関東各地の河川に対する御手伝普請を、全国各地の国持大名大名たちに命じた。熊本・細川家、津・藤堂家、萩・毛利家、福山・阿部家などである。更に延享4年(1747)大井川、天竜川の治水工事を、土佐・山内家、福岡・黒田家に、富士川や安部川、酒匂川のそれを久留米・有馬家に命じた。また、かって武田信玄が手掛けた、甲斐国内の釜無川や笛吹川の修復、及び信濃国境までの街道や橋の改修工事を鳥取・池田家に命じた。鳥取藩が負担した費用総額は5万両、藩はその殆どを鴻池家など、大坂の商人たちからの借入で賄った。どの藩も御手伝い普請の費用を捻出するために、この様な借金で賄なわざるをえなかった。これら一連の治水工事により、各大名たちの藩財政事情は悪化した。各藩が支払い困難に陥った、幕府の回収困難金=未償還金は21万両余にも及び、幕府の財政は更に限りなく悪化していった。

 宝暦3年(1753)8月、美濃国で大洪水が発生した。この国を流れる木曽川、長良川、揖斐川、いわゆる美濃三川の氾濫である。幕府=9代家重は、かねてよりの懸案事項であったこの美濃三川の治水工事を、薩摩藩島津家に命じた。これより先、享保20年(1735)において、幕府は美濃郡代井沢為永(弥惣兵衛)に調査を命じ、井沢はその結果を幕府に報告した。その内容は三川の完全なる分流であった。しかし、この計画案は余りにも工事が大規模であり、金銭負担も大きかったため、老中たちはためらい、工事の許可を下ろさないでいた。しかし、実際には木曽川、長良川、揖斐川、美濃三川の治水工事=御手伝普請は、宝暦までの間5回行われてきたが、それらにも関わらずその被害は激化していた。これらの根本的原因は、上流からの土砂の堆積によって、三川の下流の川底が高くなっていることであった。濃尾平野は上流の山あいから常時、泥や砂利、石などが流れ出し、下流近くなって流れが緩慢になってくると川床に土砂を落とす。この作用の繰り返しによって、川床は年々高くなっていった。しかし、堤防の内側の村々の地面の高さは変わらない。村々より下流の川床の高さの方が高いという逆転現象が生じた。こうした川を「天井川」と呼ぶ。住民たちは自己の村々を水の害から守るために、毎年堤防の高さを上乗せしなければならなかった。そうした堤防に囲まれた村々を「輪中(わじゅう」と呼んだ。川に囲まれた低地の村々が、共有の懸(かけ)廻し堤防を廻りに築いて、水位よりより低い自分たちの村々を、共同で守った一画が輪中であった。僅か一ヶ村から数十ヶ村、広さ3500町歩に及ぶ大輪中まで、西美濃には大小70余の輪中が存在した。地下水の無計画な汲み上げによる、地盤沈下の江東0m地帯も、カミソリ堤防や掘割の防潮堰によって、町が守られているのが現状である。

 加えて下流地域で天井川と化した三川は複雑に合流、分流していたため、ひとつの川の氾濫が他の二川の氾濫につながっていた。また、新田開発による遊水地(溜池)の減少により、降った雨が全て川に流れ込んできていた。更にこれらの地域は小領の藩が多く存在していたため、各領主の利害が対立し統一的な治水対策をとられず、三川による被害は激化の一途を呈していた。村民たちは自然災害、人的災害から身を守るために、堤防を築く他、いざという時に即避難できるように、各戸に「荷運び舟」を軒に吊るしておいた。ノアの箱舟である。また、床上浸水に対応するため、2階部分に相当する天井裏を丈夫な板で張っておき、そこで水が引くまで炊事など、日常生活が続けられるように工夫がされていた。では何故この様な厄介な土地を捨てず、農民たちはしがみついていたのであろうか。移住を図った方が生命の安全性、収穫の安定性からみても得策ではないのか。その答えは土地=地味の肥沃さにあった。三川が上流から押し流してくる栄養分によって土地は肥沃であった。江戸時代の平均取れ高を越え、反当り2,5~3石、所によっては4石の収穫があったという。エジプトのナイル川、インドのインダス川、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川、中国の黄河にみられるように、大河の流域には古代文明が盛えた。豊かな土地から人々は離れず、豊かな文明社会が誕生していった。後編は 治水事業による薩摩藩の苦悩をお送りします。

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