「江戸災害史」8江戸風水害とその被害

 2024年元旦 日本海能登半島を震源地とするⅯ7の大地震・メガフェイクが発生した。大きな揺れと津波により多くの古民家が倒壊、地元の人々を始め、年末年始を利用して楽しみに親許に帰省していた人々が犠牲になった。その後の相次ぐ余震と、地盤の隆起による道路の寸断により、復興事業はままならず2次災害、関連死も相次いでいる。日本海からの厳しい冷たい風と大雪をぐっとこらえ、暖かい春を待つ北陸の方々にこの作品を捧ぐ。

 江戸時代、風水害の多くは7月、8月頃に多く発生した。その原因は大雨による洪水、気圧の低下による海面の上昇、そこからくる高潮、強風に吹き寄せられた大波などである。享保13年(1728)9月2日から江戸では激しい暴風雨となり、神田川の昌平橋や柳橋が落ち、3日の朝には両国橋が半ばで36間(1間≒1,8m)ほど切れ、更に新大橋も西側が42間程落ちた。この為下流の普請中であった永代橋も、流されてきた廃材が杭を崩し一部損壊、江戸府内から深川、本所への交通が途絶えた。溢れた水は浅草、下谷辺りの軒下を浸した。これらの被害によりこの年の神田祭は11月まで延期となった。赤坂では溜池の水が溢れ、目黒川や六郷川(多摩川)の氾濫により、品川宿では鈴ヶ森辺りまで海と陸地の境がない有様であった。

 寛保2年(1742)7月24日、大和、山城、和泉、摂津などの畿内諸国を激しい風雨が襲った。京都では三条大橋が流され、堀川の石垣が崩れ、伏見一帯が洪水となった。江戸を除き決壊した堤防は9万6千箇所以上、流失家屋18175軒、水死者千人以上に上った。江戸府内では、下町を中心に神田川沿いの目白、小石川、小日向辺りに被害が集中、浅草では7尺(1尺≒30㎝)亀戸では13尺浸水、3900余人程が溺死した。幕府はお助け舟を出して救済にあたったが、その数は18万6千人以上に上ったと云われる。江戸やその近郊でこれ程の被害になったのは、新田開発によって、今まで大雨対策としてきた沼や池を埋め立てたり、川の流れを人工的に曲げために、水の流れが円滑でなくなった事、更に森林を伐採し農地に転用したため、雨が地下に溜まらずそのまま流失した事などに起因した。現在でも安易な都市開発により、鉄砲水や川の氾濫、土砂崩れなど、よく聞かされる事故が発生している。

 天明3年(1783)この年は厳しい冷害に加え、7月には浅間山が大噴火、死者2万人余を出した。冷害の被害は東北地方に特に烈しく大凶作となり、天明7年まで続いた。この年江戸では春から長雨が続き、晴れの日は数える程であった。6月になるとまた大雨が降り続き、隅田川、江戸川が氾濫、東海地方では大井川が川留め、下総では約1丈≒3mの大水が水田や畑を襲い、農作物は全滅した。天明6年7月12~18日の水害は、享保13年以来の大洪水となった。上野、下野、秩父からの雨で、利根川、戸田川、隅田川などが2~3丈増水、浅草、下谷、本所、向島辺りは海同然の有様となった。雨は18日なってようやく止み、幕府は両国橋の西詰東詰、大川端、馬喰町に御救い小屋を建て、炊き出しを出して難民を救済した。この時配られた物には、握り飯に味噌、鼻紙に団扇、銭50銭。子供たちにはお菓子も配られた。更に疫病発生防止のため、煎じ薬も配られた。お上(幕府)の事業の割には、こまやかな救済事業であった。こうした風水害により米価格は暴騰、天明6年正月に1両の金で米が7斗3升買えたものが、7月には5斗5升、暮れになると3升8斗と同じ1両で半分しか買えなくなっていた。

 寛政3年(1791)9月4日、巳の刻(am10:00頃)強風に吹き寄せられた高潮は、深川・洲崎に押し寄せ、深川入船町(江東区木場)久右衛門町(同区牡丹町)を浸水させた。この高潮で吉祥寺門前に立ち並んでいた町屋が、住民と共に海に流された。押し寄せた波が洲崎の弁財天を破壊、返し波(余波)が行徳、船橋まで及んだ。昼どきになってやっと波が引いたが、洲崎周辺の住民の多くは溺死、行方不明者となってしまった。幕府はこの災害を直視、東は洲崎弁天から西の久右衛門町までの間、東西285間≒518m、南北30間≒54m、坪数にして8550坪を買い上げ、ここに人が住む事を禁じた。この境界を示す祐筆による「波除碑」が、弁財天と平久橋(江東区牡丹3)の袂に設置され現存しているが、材質が砂岩のため経年劣化により風化が進み、半分程しか字は読めないでいる。

 安政3年(1856)8月25日、亥の刻(pm10:00頃) 前日から降り始めた雨が更に激しくなり、2年に発生した安政の大地震の余波とみられる地震も発生、それにより津波も発生、溺死者も多くでた。この暴風雨と地震により築地本願寺も倒壊、この付近の船松町、南小田原町、芝高輪、品川などの海岸地域は、特に風と波の被害が激しく、家屋は浸水に加え逆さ浪(津波による引き潮)に運ばれ、波の彼方へ消えていった。海岸線に立ち並んでいた各藩の蔵(下)屋敷も同様、波間に漂う事になった。浅草では浅草寺の鐘楼の屋根も飛ばされた。この災害では、風水害に加え倒壊した家屋から火事も発生、芝門前町(芝大門)からの火は幸いにも増上寺山内に延焼せずに済んだ。また、浅草御門近くの柳原土手では、土手の柳が初秋にも関わらず新芽を吹き、春景色のようになったという。天変地異が続くと人間によらず、万物が変調をきたす事になる。こうして「安政」という時代は「政事」を安らかにと願って名付けられた年号であったが、ペリー来航(嘉永6年・1853)安政大地震(安政2年・1855)安政の大獄(同5年~6年・1855~6)桜田門外の変(万延元年・1860)と、政治不安と社会不安が相次いだ。この慟哭の時代から僅か10年余、日本の夜明け、世の中を洗濯した明治維新を迎えることになる。次号はその明治維新の遠因ともなったと云われる「宝暦の治水」です。薩摩藩士の苦難を、濃尾三川の治水を通してお送りいたします。

                      「チーム江戸」 しのつか でした。



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