「江戸災害史」7火事と喧嘩は江戸の華➁

 ②文化文政年間(1804~29)~ 慶応年間(1865~68) 

 <文化の大火>文化3年(1806)3月4日 巳刻(am10:00頃)芝高輪車町から発生した火事は、薩摩上屋敷(芝公園)や増上寺五重塔を全焼、木挽町、京橋、日本橋から神田、浅草まで延焼。翌5日になって幸いにも雨が降り出したため鎮火した。火は530町に燃え広がり、焼失家屋126,000戸、死者1200人に及んだ。幕府は8ヶ所に御救い小屋を設置、11万人以上の被害者に御救米銭を支援した。この年の干支が丙寅であったため、「丙寅(へいいん)の大火」とも、「車町の大火」とも呼ばれている。芝車町は現在の高輪2丁目辺りである。古来より、牛は追うもの馬は引くものとされ、都の貴族は牛車に乗って移動した。江戸でも天下祭りの山車を引くのは黒毛の和牛であった。江戸の頃、陸上の運輸手段は時間を稼ぐならば馬、重量をこなすならば牛と相場が決まっていた。文化2年に描かれた「凞代勝覧絵巻」にも、荷車を引いている牛車が描かれている。寛永11年(1634)増上寺安国殿普請のため、京都四条車町から牛持ち(牛方)、車借りたちを呼び寄せ、材木や石材の運送に当たらせた。また、牛込や市ヶ谷見附の普請に集められた。これらの謝礼として牛方たちは、高輪にあった四町余りの草原を拝領、ここを牛飼い場とし車町と呼んだ。この町は高輪大木戸の内側にあり、大部分を東海道筋に面し、高輪大木戸南4丁目との間の「片側町」であった。延宝の切絵図では、この町の通称は「牛町」「牛の尻」、正式名称を「芝車町」と記されていた。牛約千匹を飼育、ここにいる牛たちは、額が小さく角が後ろに長くなびいていた為、顔立ちが上品に見え「薮くぐり」と呼ばれていた。この牛たちを苦しめた坂は、文京区春日の「牛坂」や港区西麻布の「牛啼坂」であった。広重は「名所江戸百景」で「高輪うしまち」と題し、牛車の大きな車輪を近景に、遠景には高輪と品川の海を取り入れて、この町を描いている。(この項は、拙書 江戸物語88<地之巻>第2章 12トランスポートの町から抜粋)

 この大火の前年、文化2年の日本橋通り町筋、今川橋から日本橋西詰までの街並み西側を、鳥の目になって俯瞰して描かれた日本橋繁盛絵巻が「凞代勝覧絵巻」である。「輝ける御代(11代家斉)の 勝れたる大江戸の景観を とくとご覧あれ」と銘打つ、この絵巻物は紙本着色の一巻本で、縦43㎝、全長12m30㎝、天之巻としている処から、通り町筋の東側、あるいは本町通りを描いた地之巻、人之巻の存在も考えられている。また、描いた画家は不明であるが、題字を書いた佐野東洲の娘婿、山東京山の兄、京伝ではないかと推定されている。京伝は戯作者でもあり、北尾政演と名乗る絵師でもあった。登場人物は1671名、内女性は200人、こどもは32人と少ない。概して江戸の街は男たちの数が多かった。江戸時代前期の男女比は3:1、中期で2:1、数が平均するのは幕末頃である。他に犬20匹に馬13頭、牛4頭に猿1匹、何故か猫は登場しない。この絵巻が文化2年に描かれたとする根拠は、描かれている三井越後屋の店先辺りに本所回向院の勧進をしている僧侶がいる。そのつづらに、文化二年と書き込まれていることによる。藍色の暖簾を張った越後屋の他に、木屋、薬種問屋、髪結、紅屋などの店が、ひしめき合って描かれているこの絵巻物の原画は、現在ドイツベルリン美術館の東洋館に展示されている。日本橋三越の地下コンコースに展示されているのはそのレプリカである。

 文政12年(1829)3月21日に発生した火事の火元は、神田佐久間町2丁目河岸、材木問屋伏見屋であったとされる。この河岸は材木の他、薪や炭など燃料を扱う問屋が多く、1度火が付いたら大惨事となった。このことから口の悪い江戸っ子たちは、「佐久間河岸」をもじって「悪魔河岸」と呼んでいた。この日は春先に関わらず北西からの強い風が吹きあれ、たちまち三方に延焼、南は新橋、汐留、東は築地、永代橋、西は神田須田町にまで燃え広がった。死者1900人を出し、50もの橋が焼け落ちた。この火事で神田川に架かる和泉橋の近くにあった藤堂家の下屋敷も炎上、既に上、中屋敷や大塚の別邸も焼失していたため、他の大名家の屋敷に間借りするハメになった。これを知った口の悪い江戸っ子たちは「藤堂家10万石の宿なし」と、自分たちの立場をすっかり忘れて、勿論こう一言評論した。そういう本人たちもこの火事で焼け出されていたし、そもそも彼らの住まいは九尺二間の棟割り長屋、れっきとした賃貸住宅であった。江戸っ子には、口から先に生まれた人間も多かった。

 嘉永5年(1852)のこの年は、幕末というせち辛い世相を反映して、火付け強盗といった類が横行、各地でボヤが発生した。幕府はこれに対し、火を出した家には厳重に処罰する旨を伝えた。更に、町内の見廻りや防火用具の配置にも力を入れた。また、風の強い日には風呂屋、鍛冶屋など火を使う商売の店には、営業を休むように通達した。安政2年(1855)10月2日に起きた「安政の大地震」に伴う火事を除き、この年大きな被害をもたらしたのは、3月1日小網町と堀江町の間から起きた火事である。折からの南西の風にあおられて、照降町、小舟町から神田を越え、柳原土手から蔵前に飛び火した。慶応2年(1866)になると全国で「打ちこわし」が多発、これらは文久3年(1863)の「第1次長州征伐」により諸物価が高騰、庶民が生活苦追い込まれた結果であった。同年11月9日、元乗物町(神田紺屋町)の裏店から出た火事は、北西の風にあおられ、鎌倉河岸から日本橋川を越え、京橋から銀座に燃え広がり、東に広がった火は八丁堀の組屋敷を焼き、この火事で大工や左官の手間賃が高騰した。 慶応3年(1867)になると、政治不安を反映して、商家に賊が押し入る事件が多発した。賊の正体は幕府警備隊の元隊員だったり、薩摩藩の御用党だったりして、なんとも始末の悪い連中だった。そんな中12月25日の早朝、三田にある薩摩藩の屋敷が旧幕軍に攻撃され炎上、火は芝田町、南品川まで回った。薩摩藩が浪士などを集め、旧幕軍を挑発するために江戸の街を荒らしていた。それらを討伐するために庄内藩などが、薩摩屋敷を急襲した事から火事が発生した。正に権利力争いからくる人災であった。迷惑をこうむるのは庶民であった。幕府が全く機能を失った慶応4年1月3日「戊辰戦争」勃発、我が国は新しい政治体制に大きく舵を切っていく。「チーム江戸」

 

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