「江戸災害史」7 火事と喧嘩は江戸の華①

 ①慶長年間(1596~1614)~明和年間(1764~71) 

 江戸が江戸が1番江戸らしかった文化文政期(1804~29)、江戸の人口は100万人を超え、120から130万人、ヨーロッパの大都市ロンドン、パリを遥かに超えていた。その半数はいわゆる八っあん、熊さんと呼ばれた庶民、江戸っ子たちであった。彼らが住まいと決めていたのは江戸の下町、居住面積は江戸全域の僅か17から18%、残りは武家地、寺社地が占めていた。ほぼ現在の中央区の面積と同程度の面積に、60から65万人の人間が肩を寄せあい、ひしめきあっていた。木と紙と土で造られた、一世帯九尺二間の棟割り長屋が、彼らの機能的home sweet home。4,5帖の居間兼寝室、1,5帖の台所兼玄関、合わせて6帖=3坪で全てであった。前面道路はひとまたぎをすればお向さんとなる3尺≒90㎝の路地、ここに面した同じく3尺の障子の高板引き戸が、唯一の外の世界との開口部であり、他三方は粗壁で一応仕切られていた。従って今でいう個人情報の守秘義務は一切なし、全面開放の御屋敷であった。江戸260余年に発生した火事は、記録されているだけでも約1800件、その内大火と呼ばれる火事は49回、徳川将軍は15人、平均すると一少なくとも一代、少なくとも3件の大火事を経験したことになるが、特に嘉永3年から慶応3年までの17年間に、実に506回もの火事が発生している。これは幕末期、幕府の威信の低下による治安の悪化が原因している。江戸の火事は、祝融とか回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てる事でこう呼ばれた。北西の風が強い12月から2月、南西の風が吹き荒れる3月4月にその7割が発生、なかには復興需要を当て込んだ付け火も多かった。大火事の云われているものはほぼ3年に1度、ボヤと呼ばれる小さな火事は毎日のように発生した。慶長11年(1606)12月には、江戸城から出火、同17年(1612)老中土井利勝の屋敷から出火、寛永16年(1639)3月、上野寛永寺から出火、回廊や五重塔が炎上した。同年8月江戸城から再び出火と、江戸初期は本来考えにくい所からの出火が多かった。

 <京橋桶町の火事>寛永18年(1641)正月29日、巳の中刻(am10:00頃)桶町1丁目から出た火事は、折からの北西の風にあおられ、木挽町から御成橋、麻布まで延焼、97町1924戸、500から600人の死者を出し、翌日の戌の刻(pm8:00)頃になってやっと鎮火、慶長年間以来の大火事となった。3代家光も大手門に出てくる陣頭指揮をとり、諸大名も消火に当たったが、江戸の大半を焼く結果となった。これを踏まえて幕府は、2年後の寛永20年大名火消を創設、また、楓川沿いにあった日本橋材木町に置かれていた材木などが、ここ火事を大きくしたと判断、材木商たちを深川永代島(元木場)に移転、更に本所猿江、更に三つ目通りの深川木場へと、江戸の街の外へ外へと移転させていった。

 <明暦の大火>1度目の出火は、明暦3年(1657)正月18日未の刻(pm2:00頃)本郷丸山本妙寺から出火、駿河台から鎌倉河岸、築地から隅田川を超え深川、本所牛嶋神社辺りで鎮火。この火の手は伝馬町牢屋まで及び、解き放された囚人たちと一般市民は、浅草御門が開かれなかったため、神田川で多大な犠牲を強いられた(むさしあぶみ)。いわゆる「振袖火事」と呼ばれる火事である。2度目の発生は、翌日の19日巳の刻(am8:00頃)伝通院表門下の新鷹町から出火、小石川の水戸屋敷から外堀を越して、午の刻(pm0:00)過ぎ、江戸城天守閣に飛び火。常盤橋から大名小路を抜け、日本橋から大川端辺りで鎮火した。幕府はこの大火後、政治体制を武断政治から文治政治へと転換、不要とされた天守閣は保科正之の英断により再建されなかった。第3度目の発生は、同じく19日申の刻(pm4:00頃)麹町の町屋から出火、江戸城南側から虎ノ門、増上寺を半分焼き、芝浦辺りで20日辰の刻(am8:00頃)鎮火、合計42時間江戸の街を舐めつくした。以上3回の大火事で22里8町四方、江戸の約2/3を焼失、江戸人口(当時約35万人)の1/3の107,046人の方々が亡くなった。(武功年表)これ程の大惨事になった原因は、当時隅田川には千住大橋のみで、日本橋と深川を結ぶ永代橋が架けられていなかったため、府内の人々は逃げ場を失って大河端で焼死、溺死した。また、正月8日は江戸でも異例の寒波が襲い、飢えや寒さで多くの人が餓死、凍死していった。(詳しくは、チーム江戸 江戸瓦版 HP<天之巻> 5「火事と喧嘩は江戸の華」の項をご参照ください)

 寛文8年(1668)2月未の上刻(pm1:00項)牛込の武家屋敷から出火、この日は市谷天竜寺からも出火、愛宕山から新橋、芝浦の海岸まで燃え広がった。更に、御茶ノ水や四谷竹町辺りからも出火、これらの火事はひとつとなり、多くの被害をもたらした。これらの連続した火事で、武家屋敷3100余、町屋120町が焼失した(武功年表)。また、延宝4年(1676)9月、芝増上寺から出た火は、黒本尊を安置している部屋まで燃え広がったが、辛うじて本尊は焼失を免れた。また、この年の11月7日の夕刻、新吉原の江戸町2丁目から出火、火は廓内から隅田川を超え、本所まで燃え広がって鎮火した。この火事で遊女12人が焼死した。新吉原界隈からの火事は、この後寛政12年(1800)にも、2月23日浅草田圃の龍泉寺町から出た火事は、近所の新吉原にも飛び火、遊郭は残らず焼失した。また、安政7年=万延元年(1860)9月28日、新吉原から出た火も廓を全焼、日本堤まで延焼した。

 <天和の大火>天和2年(1682)12月28日駒込大円寺から出た火事は、日本橋から本所まで延焼した。江戸本郷の八百屋の娘お七は。焼け出されたため駒込吉祥寺に両親と共に避難した。お七が火をつけるきっかけになった火事を、歴史学上では(お七火事)という。この時出会った吉三郎に一目惚れ、又火事が起きれば会えるとワルにそそのかされ、付け火をしたのが天和3年、3月2日である。お七火事が起きてから天和3年2月までの2ケ月余の間、毎日5から6回、多い日は8から9回も火事が発生した。そのすべてが付け火であった。動機は模倣、いたずら、復興需要を見込むものなど様々であった。現代でも、一つ事件が発生すると似たような事件が起きる。悪さを真似しても何の進歩も発展もない。この時お七は14歳であった。お七が付火をした火事は、直ぐに消し止められボヤで済んだが、放火は死罪である。泪橋を渡り鈴ヶ森に送られ火炙りの刑に処せられた。この事件は流石の江戸っ子たちにとっても、衝撃的であった。付け火をした本人がまだ14歳の子供で、しかも女の子ということで、井原西鶴が「好色五人女」を発表、演劇界でもこれを題材にした歌舞伎が創作された。「八百屋お七恋緋桜」「三人吉三廓初買」である。天和2年から延宝8年(1680)の3年間は、こういう世相にあわせてか、長雨、大風、洪水などの自然災害が日本列島を襲い、諸国は飢餓で苦しんだ。

 <勅額の火事>中堂の火事ともいわれるこの火事の名称の由来は、この年の8月に上野寛永寺の根本中堂などが落成。その前の6月には東山天皇からの勅額が、京から江戸に到着した日に、出火したためにこの名が付けられた。この工事にあたっては、紀伊国屋文左衛門が材木の手当てを担当した。文左衛門は例の商才を発揮、部材を多く水増しして購入(収賄)した上で、その余材を永代橋の架橋に流用したとされている。そのため、永代橋は構造的に問題がある橋とされていた。本題に戻ると、元禄11年(1698)9月6日の昼前、京橋南鍋町から出た火事は、折からの南西の風にあおられ、数寄屋橋御門内に延焼、大名、旗本屋敷308戸を焼き神田橋の外に延焼、更に駿河台から池之端、上野寛永寺を類焼、一方、日本橋に延焼した火は両国橋を焼き落として本所まで及んだ。半日以上燃え続け亥の刻(pm10:00頃)大雨が振り出し、やっと鎮火した。この火事で寺院232寺、町屋18,700戸余が焼け、3千余人が焼死した。当時、鍛冶橋御門内にあった吉良義央の上屋敷は呉服橋に移転、更に、刃傷事件で赤穂浪士の襲撃を心配した近隣の苦情もあって、更に川向うの本所松坂町へ移転を命じられた。これは諸大名たちの苦情にかこつけた幕府の、赤穂浪士たちへの吉良家討入の容認であるとされている。元禄15年(1702)12月15日早朝、吉良を討ち取った赤穂浪士47名の面々は、泉岳寺に向けて凱旋、永代橋を渡った。

 享保5年(1720)3月27日、日本橋箔屋町から出火、折からの南西の風にあおられ、伝馬町から浅草、千住まで延焼して午前0時頃鎮火した。この日8代吉宗は葛西辺りで鷹狩をしていたが、報せを聞いて舟で永代橋まで下り、ここから茅場町から鍛冶橋を通って江戸城へ入る事にした。この時、永代橋を渡って避難しようとしていた民衆を、徒士たちが将軍警護のために止めた。止められればその分火事場から逃げる時間が遅れ、被害が増大する。民衆は苛立った。これを見た城から警護に駆け付けた本多忠良は「責任は我が取る」と、橋を通過させ焦る民衆を無事避難させた。吉宗は船上からこれを目撃、忠良の臨機応変な判断に感服したという。このエピソードを逆にいったのが文化4年(1807)8月の深川八幡祭での人出で永代橋が落下、500人余が溺死した事件である。長雨で祭が延期になっていたが、やっと晴れ上がり待ちに待った江戸っ子たちが永代橋の西詰にあふれていた。永代橋を渡りかけたとき、橋の下をさる大名の舟が通過仕掛けた。この為民衆は橋の上で立ち往生、舟が行った、さあ渡るべぇと一気に加速、橋板に加重がかかり、傷んでいた永代橋は深川寄りで崩落、渡りかけていた多くの民衆が隅田川の水の中に放り込まれた。周りを無視して気ままに下を通過した大名の落ち度か、適切な民衆整理を怠った警護システムが悪いのか、ここで必要なのはマニアルを越えた、リスクを回避できる鋭敏な頭脳の回転と胆力である。

 <明和の大火>明和9年(1772)2月29日、九っ半(pm1:00頃)目黒行人坂の大円寺から出火、南西の風に乗って、麻布、京橋、日本橋から千住まで延焼、一旦は鎮火した。夕刻になって再出火、駒込、根岸を焼き、3月1日日本橋から再々出火して3日間で934町が焼失、死者1万5千人余、行方不明4千人と大被害をだした。原因はこの寺で修行をしていた僧が、ある日僧侶に叱られたのを逆恨みして、自分の寺に火をつけたとか、真秀という僧が、盗みのために放火したとも云われている。大円寺はこの後江戸期、再興が許されなかった。因みに、この犯人を捕縛したのは、長谷川平蔵の父親で信雄、京都奉行所を経て江戸で勤務していた。行人坂は白金台町から西宮目黒方面に下る坂で、大円寺で修行していた僧たちが、この坂を托鉢のため行き来していた事からこの名がついた。この坂の下に「名所江戸百景」にも載っている「太鼓橋」がある。この橋はお七が好きだった吉三郎が、お七の処刑後出家して僧となり、目黒の大円寺で修行した。その後この坂を改修して太鼓橋を架けたという。明和9年のこの年は、8月にも大水害が江戸で発生した。明和9年という年は、江戸市民にとって、すこぶる(迷惑な年)であったため、年号が変えられ、明和9年=安永元年となっている。




 

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