「江戸災害史」6救荒書・囲籾・疫病
承応・明暦年間(1657~58)は、明暦3年(1657)人類史上において最大の都市火災といわれている<明暦の大火>が発生したことにもより、都市化の時代が進んだ。現在の都市と云われれているものには、この時代の町場のものに始まるものが多い。関ケ原と大坂冬の陣、夏の陣で、金、銀、銭貨の造幣権を手にした徳川幕府であったが、その政治体制の矛盾、歴代将軍と大奥の浪費、相次ぐ自然災害と人災、疫病などによって、家康が蓄えてきた備蓄stockは、使い果たされていった。備えを失った江戸期は、悪鋳と倹約と飢餓が連続した時代でもあった。
飢饉という非常の事態に対処する知識を備えるものに、<救荒書>があり、日常的な農作業の知識を伝えるために、多数の技術書が書かれていた。取り巻く気象環境が厳しく、生産条件がタイトな奥羽地方では、地域の自然に対する注意に重点がおかれ、冷害に強い早稲を中心とした栽培技術を説いている技術書が多い。「天の時の冷気にも負けず 土地の善悪にも負けず 実りよき稲を獲ることは 人の仕方にあり」という。凶作、飢饉に負けない力は人の努力以外の何物でもと説いているが、人(農民)の努力、精神力だけでは抗し切れない、賄いきれない自然の脅威は、常に身の回りに存在していた。奥羽各藩の農民たちにはそれが頻繁であった。自然災害に加えて人災がそれに輪をかけて、被害を甚大にした。こうした飢饉という非常事態に備えるため、通年の農業技術の知識、技術などを、後世に伝える書物が救荒書であり、この書は凶作時の備えであると同時に、日常的な農作業の知識、例えば寒冷地でも生育が可能で利益のあがる、蕪や油菜の栽培技術なども伝えた。特に生産条件の厳しい奥羽地方では、自然に対する注意事が書かれ、その年々の気候をよく考慮するように説かれていた。自然の脅威を如何に最小限に留め、そこから回復するかが、人の仕方=努力であり、そこで挫け捨てることは自然に屈服することにつながった。
凶作時、不作時など非常事態に備え、穀物を貯蔵しておくことを<囲籾>という。江戸時代前期より、全国の諸藩で様々な名目でこれが行われていた。幕府の囲籾対策は、救荒備蓄と米価対策を兼ねたもので、宝暦3、4年(1753~4年)の2年にわたって、幕領、私領に関わらず、1万石につき米籾1000俵(1俵=5斗、1石=10斗)を備蓄するように命じた。籾を半分の量に精米する「五合摺り」にすると、籾1000俵は250石分にあたる。次いで幕府は、宝暦10、11年、米1万石に対し麦籾1000俵の囲籾を改めて命じた。幕府からの対策に先立って諸藩では、独自の対策を講じていた。例えば岡山藩では、承応3年(1654)の大洪水に見舞われた経験に基づき、耕地1反につき2升の麦を貯蔵する「畝麦(育麦)」の制度を始めていた。後の延宝期(1673~80)天和期(1681~83)の洪水、飢饉ではこの制度が役立った。こうした幕府や諸藩の対策とは別に、民間の間でも飢饉、凶作時に備えて自主的に穀物などを貯蔵する<義倉>も、全国各地で行われていた。備中国倉敷村でも、明和6年(1769)困窮者の救済を目的として義倉が組織され、供出は10年間続けられ穀物などが集められた。日常の管理は村内の寺院が担当した。この時代の凶作、飢饉に対する救済、救荒は幕府、諸藩の官主導と民間主導の両輪で、まがりなりにもその役割を果たしていた。
飢饉が長引くと自然環境が破壊され、人体の免疫力が低下すると<疫病>が発生する。疫病は飢饉によって誘発される場合もあるが、都市への人口一点集中と、それに伴う衛生環境の悪化がその発生に拍車をかける。それに対して歯止めをかけるのが医療技術の発達や、衛生意識の向上であるが、江戸という時代においては、医療技術の不足、衛生意識の低さ、診療、薬価に対する自己負担が大きかったために、疫病が流行しやすい環境にあった。この時代、凡そ4年に1度、麻疹、疱瘡、赤痢、疫痢、流行性感冒などが流行った。享保年間にも様々な疫病が流行した。享保2~6年(1717~21)にかけては、全国的に麻疹が流行った。同8年から10年にかけては疫痢、15年からは再び麻疹、17年から元文元年(1736)にかけて狂犬病が大流行した。これは元禄期(1688~1703)の生類憐みの令が廃止されて以降、野犬の野放し状態が続いていたためであった。これらを踏まえて8代吉宗は、医療事業に積極的に取り組んでいった。①幕府医官の技術向上を奨励し「東医宝鑑」などの医薬書を発行、医学の普及を図った。➁目安箱に投函された小川笙船の意見書を取り上げ、小石川薬園に施薬院と養生所を設けた。ここでは極貧状態にある患者たちへ入院、治療を施した。ここは公的医療機関として、明治時代まで存続した。③日本産の薬種(和薬)生産の普及を図った。採薬師と呼ばれる役人を全国に派遣、各地に自生する薬草を採取、これらを持ち帰り小石川薬園で栽培、普及を図った。また、併せて薬効はあるが高価であった、輸入した朝鮮人参をもとに改良した、国産朝鮮人参を栽培し普及にも力を入れ、江戸の社会における医学、医療に対する関心、認識を高めることに貢献した。吉宗のこうした政策は「御慈悲の御政」と評価された。
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