「江戸災害史」5江戸の大飢饉
飢饉とは、自然災害のため主要な食物が得られず、多数の人々が飢えに苦しむ社会現象をいう。飢饉は大小あわせると、江戸時代を通して35回発生、そのうち大飢饉と呼ばれるものは寛永、宝暦、享保、天明、天保年間に生じた。その原因は悪天候や冷害、干ばつ、洪水、津波、台風、虫害、火山噴火など自然災害によるものであるが、それらと同時に、人々がその立場を忘れ、業務努力を怠り、凶作に対する備畜、救荒野菜の育成などすべき事をせず、人命よりも己の利潤追求を優先した「人災」によるものが多い。特に徳川の幕藩体制が崩れかけた時代の、東北地方にその傾向が強く見られる。因みに我が国の食料自給率は37%、備蓄米は約100㌧で半年分、小麦は2~3月分の備蓄がある。石油の備蓄は10ヶ所のバースで、1日340万㌭消費するとして約250日分の備蓄となる。我が国はドイツに抜かれ経済大国4位であるが、この数字は江戸時代と大差はない。
<寛永の飢饉>寛永16~18年(1639~41)にかけて、西日本は凶作であった。東日本では同17年頃から冷害の様相を呈してきた。幕府大老であった酒井忠勝は「50年100年にも稀なる飢饉と認識、百姓の疲弊を無視して年貢収納を強行すれば、島原、天草のような一揆も起きかねない」と、同19年5月諸大名に帰国を命じ、凶作による住民等困窮のため、「撫民」に努めるよう指示を出した。次いで幕府は「飢饉奉行所」なる組織を設置、①米価高騰の原因は、関連組織の不正にあるとして、江戸、上方の蔵米の調査 ②各地の生産米を江戸へ廻送、米流通の拡大を図った。こうした措置は倹約や酒造制限などとともに、各地の大名や旗本にも指示された。たびたびの災害や飢饉が続くなか、諸大名たちは「藩」と「農民」の双方を両立させることを求められた。幕府設立当初、徳川幕府は支配者である「武家の結集体」として形成されたが、この体制が「対百姓を意識した社会的権力」としての機能を重視せざるを得なくなってきていた。この契機となったのが、「島原の乱」に続く「寛永の飢饉」であった。帰国した大名たちは従来の政治体制を反省、「百姓成立(なりたち)」を目的とした農政への転換を図っていった。これを武士階級では「仁政」と呼んできたが、見方を変えれば年貢(税収)の根幹をなす米の生産の向上、維持のため、徳川の幕藩体制を維持するため、とどまる処、自分たちの生活を堅持するための方策であった。
<享保の大飢饉>享保16年から17年(1731~32)にかけて、西日本各地に大雨が降り低温の悪天候が続き、冷夏の年となった。このためウンカ(雲霞、雲蚊、浮塵子などと書き、5㎜程の小さな虫で稲の成長に悪影響を及ぼす)などの害虫が異常発生、稲作に甚大な被害をもたらした。これにより中国、四国、九州の西日本各地が凶作に陥り、特に西海道(九州)の被害が甚大であった。西日本各藩のうち46藩が影響を受け、これらの総石高が前年236万石であったものが、この年の生産高は63万石(約27%)でしかなかった。この飢饉の原因は、米価の引き上げによる生活の困窮、他藩への移出入を制限若しくは禁止する「津留政策」により、また交通網の不備により、各藩同士の物流が停滞していたことによる。この飢饉により各地の農村部で百姓一揆や打ちこわしが発生、17年だけで18件も起こった。このため幕府は天領や関東、信濃、出羽、陸奥より米を購入して廻送、参勤交代を緩和、金銀を貸与するなどして西日本一帯を支援、また、救荒作物として青木昆陽が開発栽培したさつま芋を奨励、大森代官井戸正明などは芋代官と呼ばれた。
<宝暦の飢饉>宝暦5年(1755)3月は薩摩藩が木曽川改修工事を完成させた年である。この年は5月頃から全国的に雨が続き、特に東北地方では気温が上がらず、7月には津軽(青森)地方で雪が降った。シベリア地方の寒気が、ヤマセの風」となって奥羽山脈を越え、東北各藩に冷害をもたらした。こうした自然災害に対して東北各藩の対応は異なり、人の命が左右された。このため宝暦の飢饉は人災と云えた。凶作は農業技術の未熟、天候観測の未発達などから、江戸時代を通じて何処でも同じ様に発生した。この凶作に如何に対応したかによって、被害の程度に温度差が生じた。弘前藩では過去の経験から、領内の米を津留にし食糧を確保したため、また、一関藩でも藩の貯穀を領民に放出したため、餓死者はほとんど出なかった。一方、盛岡藩、八戸藩では凶作の兆候がみえていたにも関わらず、江戸へ廻米を続け、蔵米は底をついていた。藩の財政状況がひっ迫していたため、飢えのリスクよりも金銭収入を優先した。領内の寺院で粥が施されたが焼け石に水で、盛岡藩では5万人、八戸藩では3千の餓死者を出した。このため9月には大坂で米価が高騰、米沢、山形、津軽、仙台など東北諸藩に一揆、打ちこわしが起きた。
<天明の大飢饉>天明3年~7年(1783~87)天明3年の4月から7月まで続いた浅間山の大噴火により、その噴煙は太陽光線を遮り、日照不足を深刻化させた。5年間にわたり冷害による凶作が続き、天明の大飢饉と結びついていった。大噴火がもたらした天明の大飢饉は、日本全国で大飢饉となり、東北諸藩の餓死者は数十万にのぼった。天明5年、羽後亀田領に一揆がおこり、米価は高騰、幕府は米の買占めを禁止した。東北諸藩の飢饉はなおも続き、同6年になると、関東でも未曾有の大洪水が発生した。世の中暗くなる一方であった。こうした社会情勢を反映して、老中田沼意次が推し進めていた、印旛沼手賀沼干拓工事は中止、田沼は老中を罷免された。天明の大飢饉は、時の政権担当者の政治的能力の欠乏=人災も加わって、寒冷地東北諸藩で大勢の犠牲者を出した。宝暦年間には餓死者を食い止めた弘前藩では、餓死者、病死者併せて8万人余、津軽藩では10数万人に達したといわれる。粟、稗、蕎麦、里芋などの救荒野菜を食べつくすと、来春蒔く種米にも手をつけた。それでも天候は回復せず凶作は続いた。木の芽、草の根、昆虫など、口に入る物は何でも食べて飢えをしのいだ。地方によっては人肉まで食べたという記録がある。正に人間の世界ではなくなっていた。各地の都市部では打ちこわしが発生、江戸では5千人もの人々が市中全域にわたって米屋、豪商の家を襲い、米や金品を強奪した。都市部は無法地帯と化していた。天明7年6月、自国白河藩で餓死者をゼロに食い止めた松平定信が老中筆頭となり、「寛政の改革」が始まった。定信は大名旗本に倹約令を発令。8月になると大坂で米価が下落してきたため、米穀他所売禁止令を解く一方、米穀の買占めや酒の密造を禁止、米価の安定に努めた。寛政2年(1790)2月、長谷川平蔵と共に、隅田川三角州・石川島に人足寄場を設置、東北の村々を捨て、江戸で無宿人となっている人々を寄場に集め、それらの人々の更生と自立を促し、加えて江戸の治安も守った。政情は少しずつ明るさを戻していった。外国でもアメリカ独立戦争と共に、典型的な資本主義革命といわれた「フランス革命 Furech reborution」が、1789年7月14日勃発、この遠因もアイスランド・ラキ火山噴火による噴煙からくる凶作であると考えられている。
<天保の飢饉>天保3年~4年(1832~3)全国で天候不順が続き、陸奥(青森)出羽(山形)地方では大洪水と冷害、関東地方でも暴風雨が襲い、その年の収獲は例年の半分であった。このため全国で飢えや病気で30万人もの人が命を落した。天保の飢饉が、天明の大飢饉に劣らず犠牲者が少なからず多かったのは、これまでの経験、学習効果が生かされておらず、東北各藩では飢饉に対する備え、備蓄米などが徹底されておらず、天明の大飢饉の同じ轍を踏んだためである。明らかに人災であった。幕府は避難民に食糧や銭を支給したが焼け石に水であった。こうした状況の中、幕府直轄地、甲斐国郡内地方、三河国加茂郡でそれぞれ1万人を超す百姓一揆が勃発、徳川幕府の権威は地に堕ちた。続く天保8年2月、幕府対応のおそまつさ、腐敗に業を煮やした大坂町奉行所の与力、大塩平八郎が武装蜂起した。この乱は準備不足のためわずか1日で鎮圧されたが、幕府内部からの政治批判であったため、この事件も幕府の威信を著しく傷つける結果となった。天明の大飢饉あたりから、北関東や東北各藩の農村では、農民の農村離れが続き、彼らは田や畑を捨て「無宿人」となって江戸の町に散在、江戸の治安を乱した。幕府老中水野忠邦は、百姓の農業以外の業に従事することを禁ずる法令や、人返しの法(帰農令)を実施したが、生きている人間はおいそれとは動かなかった。全国の諸大名たちにとって、そのことより問題となったのは働く農民、年貢を納めてくれるに農民たちの不在が続けば、自然災害ではなく「人害による凶作」となる。減産=年貢の減収により、その体制を維持することが不可能になっていった。年貢で成立していた幕藩体制が崩れ、行き詰まりを見せていった。こうした状況の下、各藩は財政再建と藩政改革に力を注いだ。有能な人材の育成に力を入れた。これらの政策に成功した薩摩、長州、土佐の各藩は、維新を牽引、新しい日本を開拓していくのである。
東北地方から北陸、山陰にかけての日本海側で使われている方言に「てんぽな」という言葉がある。この言葉は「大変な」とか「とんでもない」事を意味し、天保の飢饉に由来する言葉である。この言葉は更に強調され「てんめいな、てんぽな」とも使われている。また、天保の大飢饉の際に、後世を思って俵に詰め保存されていた「蕎麦の実」が、平成11年に福島県浜通り(天保の時代は相馬中村藩)の、古民家の屋根裏部屋から発見された。山形県内の製粉所が約160年ぶりに発芽させた麦は、現在他の品種との交雑を避けるため、本土から30㌔海上の日本海飛島(酒田市)で栽培されている。
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