「江戸災害史」4浅間山大噴火

 南は長野県軽井沢町、北は群馬県妻恋村、この県境にそびえるのが浅間山2568mである。浅間山は世界有数の活火山としても知られ、現代でも三筋の煙をたなびかせている。天明3年(1783)4月9日浅間山は爆発を起こし、5月26日小噴火、7月6日には噴火が激しくなり、岩石が飛び散り黒煙が立ち込め、日中であっても暗夜のようになり、亥の刻頃(pm10:00)大噴火となった。通常、噴煙が地上成層圏20から50㌔の成層圏にまで上ると、火山灰は偏西風にのって地球を一周する。この浅間山の大噴火やアイスランド島の噴火の火山灰が地球を覆い、日照不足をもたらし、穀物の成長不足、凶作となった。欧州では小麦が獲れず、従ってパンが作れず「フランス革命」の一因となったとされる。浅間山大噴火の噴火では草津山も焼け、火砕流が北側に流れだし、現在の「鬼押し出し」を造りだした。軽井沢では直径1尺≒30㎝もある軽石が降り火災が発生、186軒の村落のうち51軒が焼失、65軒が大破した。この噴火は4月から7月まで続き、死者は凡そ2万人余り、長引く噴煙により日照不足が続き6年間に及んで、特に東北地方を中心に冷害による凶作が続き、多くの犠牲者を出した。加えて、江戸時代は「地球小氷河期」にあたり、平均気温は現代に比べ、暖かい時期でも約2度、冬季では約5度も低かったと云われる。その上に浅間山の噴煙が太陽の光を遮ったことで更に低下、冬季になると隅田川の川面が氷結するほどの寒冷気象となった。

 7月8日巳の刻(am10:00)頃、大噴火に伴い大規模な火砕流が発生、火口から13㌔離れた鎌原(かんばら)村を僅か11から12分で襲い、そのまま20数キロ先の吾妻川に流れ込んで、川をせき止めた「鎌原村岩滓なだれ」が発生した。鎌原村は5㌔にわたり岩砕で埋まり、当時118戸に570人生活していたが、うち477名がこの火砕流で命を落した。この村の東側の山に観音堂がある。かってこの観音堂の石段は50段であった。火砕流が発生した時、村人は高台にある観音堂を目指して、その50段の石段を駆け上った。秒速にして約100mの速さのスピードで襲い掛かってくる火砕流に、必死に石段を駆けのぼった。運悪く逃げ遅れた村人たちは、のみ込まれていった。昭和54年、観音堂の発掘調査が行われた。石段の35段付近で若い女性が母か姑を背負い、うつ伏せに倒れていた2人の遺骨が発見された。あと数段で力がつき、火砕流にのみ込まれたのであった。鎌原村では村民の83%もの人々がが死亡、生き残った人々は93名、118戸の家屋総てが焼失、耕作地の95%以上が荒廃地となった。「徳川実記」によると、「山の東方が崩壊、泥流が流れ出し田畑を埋め、信濃上野両国の民が流され、あまつさえ石に打たれ砂に埋もれ、死するもの二萬人余 牛馬はその数知れず、凡そ、この災にかかりし地40里余りに及ぶ」という。また「武功年表」には、江戸でも硫黄の匂いする川水が中川から行徳へ流れ、伊豆の海辺にまで濁ったとされる。芝浦、築地、鉄砲洲付近では、津波が押し寄せてくるではと人々は騒ぎ、佃島の人々も2日ばかリ陸地へと避難した」とある。

 巳の刻に発生した鎌原岩滓なだれは、吾妻川をせき止め、自然のダムを出現、川水を各支流に逆流させ、各流域を水没させた。しばらくするとその自然のダムが決壊し、泥流は下流をのみこんでいいった。この行程は少なくとも3回繰り替えされた。吾妻川は渋川で利根川と合流、泥流は前橋で、更に下流の戸谷塚村(現伊勢崎市)に流れ込み、河原では多くの人馬の遺骸が打ち上げられた。更に泥流は関宿から江戸川にも入り込み、下小岩村(現東小岩)では、川の中州に打ち上げられた多くの遺体を葬ったという。幕府は復興対策の責任者として、勘定吟味役根岸鎮衛を現地に派遣、根岸は村々を視察、その際見聞した事柄を「耳囊」に収録した。「胸に抱き背におうた子や、年老いた母や姑を気遣い、若い母親が生死をさまよい、あるものは運よく助かり、あるものは天に見放されて死んでいった」と。近隣の大笹村や千俣村、大戸村はいち早く救済に動きだした。生存者を自宅に収容したり、食糧などを供給、残された93名にはそれぞれの家族構成が出来るように配慮した。被災直後の食糧援助、現地を調査、的確な復興資金の投与、強力なリーダーシップによる村の存続にむけての尽力。これらの教訓は、現代でも十分に通用する重要事項である。




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