「江戸災害史」3富士山大噴火

 火山噴火 eruption とは、火山からマグマや火山灰が急速に地表や水中に噴き出すことを云う。災害となる主な火山現象には、噴石、火砕流、溶岩流、火山ガスなどがある。火山活動は長い事から、現在休止している火山も含め、過去に噴火記録のある火山や今後噴火する可能性がある火山は、すべて「活火山」と呼ばれる。日本における火山は海溝と呼ばれるプレートの境目にほぼ平行して分布、プレートのズレによって発生する大地震は、しばしば火山噴火を誘発する可能性がある。概ね過去1万年以内に活動を記録した活火山は2017年時点で117,監視観測が必要な山とされる火山は、阿蘇山を始め50も存在、そのうち10ほどは江戸・東京を囲んでいる。江戸時代の人々は火山噴火を「鬼が暴れる」と形容、自然の天変地異に驚き恐れた。

 <宝永富士山大噴火> 現代でも富士山東側中腹右寄り七合目付近に、火口と火山礫で盛り上がった宝永山が見える。宝永4年(1707)10月4日の丑の刻(am2:00)頃、宝永の大地震」が発生、震源地は遠州灘沖から紀州灘沖、東海、南海地震が連動したと考えられている。Ⅿ8.6、死者2万人余、倒壊家屋6万余。津波が九州南部から東海沖に発生、紀伊半島で5~10m、土佐では場所により26mもの津波が襲来した。この地震から49日後の11月23日、富士山は大爆発を起こした。地下の断層がずれ、マグマ溜りが圧縮され急激に膨張、押し出され噴火したものと考えられている。富士山は幾たびの噴火を繰り返してきたが、大爆発は貞観6年(864)青木ヶ原の溶岩噴出以来であった。11月10日山麓で地響きが起き、11月22日の夜から山麓一帯で強い地震が発生、11月23日午前10時頃、5合目付近の東南斜面から噴火、噴煙は地上23㌔までのぼり、噴煙は偏西風にのり、房総半島まで及び江戸では火山灰が約1寸≒3㎝程積もった。この噴火が完全に収まったのは12月9日のことで、須走村では75戸のうち37戸が焼失し1丈≒3m、御殿場村では3尺3寸≒1mの降灰があった。京都奉行所の与力が書き記した「翁草」には「土砂吹き出せし所 穴の口に大なる山を生ず、世俗これを呼びて宝永山と称す。本海道から眺めれば右流れの土腹に塊出来て瘤のごとし」と記されている。

 特に降灰の被害が大きかった地域は、小田原領の駿東郡と須走上郡であり、田畑は砂や灰に覆われ、水路も埋没したため荒れ果てていくばかりであった。小田原藩は1万俵の米を直ちに配り、幕府は拝借金1万5千両を許したが、当時老中に就任していた藩主大久保忠増は、領内巡見をしたものの、村々に対しては自力復興を促すのみであり、何の施策もうたなかった。やむなく領内104村々は幕府へ出訴することにした。この動きに慌てた藩は、更に2万7千両の砂除金と2万両の御救米を支給することにした。国の政治をリードする老中(現代の閣僚級)がこの有様であった。この有様のせいか、被害地は翌年になっても復興は進まず、これをみた幕府は被災地を上知(知行地を返上すること)させ、幕府の手で直接復興しようとした。これにより小田原藩領の半分強6384万石を幕府領とし、代わりに美濃、三河など4ヶ国で同量の替地が与えられた。宝永5年1月7日、幕府は関東郡代伊那忠順(ただのぶ)を直轄領の総奉行に命じた。忠順の方針は耕地の復旧は村の自力に任せ、公儀は治水などの大規模工事を行なうというものであった。これを踏まえて岡山藩、小倉藩に「御手伝普請」が命じられた。その上で幕府は災害時の救済資金として、諸藩に対し100石につき2両の諸国高役金(臨時課税)を申し付け、48万両余を徴収した。しかし、実際に復興資金に使われたのは16万両余で、残り32万両余は幕府の御金蔵に入れられ、そのうちの24万両余は江戸城の造営費として内部留保された。当時の勘定奉行は元禄の改(悪)鋳を行った荻原秀重であり、この高役金には裏があった。申し付け書に書かれた「御救旁の儀」の「旁」の字が問題であり、「旁」という言葉にはあれやこれやとか、何やかやという意味合いががある。当初から幕府財政の補填、御殿の造営に使う考えであったのである。名目をすり替えた公儀の詐欺行為といわれても仕方のないやりかたでであった。この幕府による臨時税、復興税が始まったのは5代綱吉の時代で、側用人は柳沢吉保であった。その最初の案件は東大寺大仏殿の再興事業であった(折りたく柴の記)。現在の消費税と同じ考え方である。酒匂川堤防復旧を進めた伊那忠順は、何度も江戸と小田原を往復して幕府へ救援を訴えた。飢餓に苦しむ者、村を捨て一家離散する者が続出、これを見た忠順は独断で幕府の米蔵を開き、1万3千石を農民に分配、これにより多くの人々が飢えから救われた。正徳2年(1712)2月29日、忠順は割腹してその責を負った。現在、須走地区に伊那神社があり、その境内に忠順の像が立っている。いつの世も災害時においてトップに立つ者は、被害者の訴えを聞き現状を把握、速やかに手を打つ決断力が必要であることは、歴史が物語っている。

                        

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