「江戸災害史」2 津波・Tsunami

 「津波」と云う言葉の起源は、慶長6年(1611),秀吉が亡くなった年に東北地方で地震が連続して発生した。続いて同年10月28日に、三陸地方でマグニチュード8,1の地震が発生、津波が津軽、南部地方を襲い、仙台藩で5千人余の溺死者が出た。これを世にいう「津波」と云うと「駿府記」に記されている。それまで津波のことを「大潮」「高潮」「暴潮」「高潮」「逆波」「海嘯(かいしょう)」などと呼んでいた。これに対し「津波」と云う言葉は、「津=湊」に重点がおかれ、大波で湊が襲われることを指していた。「甲陽軍鑑」では、川の洪水で、河湊が流されることを津波と呼んでいた。その言葉が地震の大波による、湊や海辺の村の被害にも使われるようになったと云う。江戸時代を通じて、津波という言葉は、地震による高波を示す言葉として、次第に社会に受け入れられていった。慶長年間(1596~1614)から、自然の脅威に対する記憶として、後世に伝えようとする努力が始まったのである。

「津波」とは、地震や火山活動,山体崩壊を起因とする海底、海岸地形の自然環境の急変により海面が盛り上り、海洋に生ずる大規模な波の伝播現象である、と定義される。一般的に岩盤がずれ動く地震で、津波が発生するケースは、海域の浅い場所を震源地とするⅯ6,5以上の地震とされている。また、研究者の間では、震度1以上の地震発生がなくとも、津波が発生するのは、海底で地滑りが起きた可能性があると考えられている。津波には押し波、引き波があり、引き波は膝の辺り30㎝程の高さでも、足元がすくわれ転倒するほどの破壊力を持っている。津波は英語では<Tsunami>と表現、国際語となっている。その起源は、1946年、アリューシャン列島で大地震が発生した際、その津波でハワイ諸島が大被害を受けた。島に住む日系移民たちが、Tsunami という言葉を多用したことで、この言葉がハワイで浸透、世界中に広まった。1968年に米国の海洋学者が、この言葉を学術用語として使用することを提言、国際語となった。本来はtidal (潮の、干満のある)wave(波)である。因みに、「高潮」は、主に台風や低気圧による海面の吸上げが原因で、潮位が上昇する現象で、「高波」は、海面に強い大風が吹き荒れ、高い波が発生する現象をいう。20mの津波は5階建ての建物の高さに相当する。これまで東京都の地震災害の捉え方は、①建物倒壊危険度 ②火災危険度 のふたつの尺度で捉えてきたが、3,11の東日本大震災で直視せざるを得なくなったのは津波の被害である。東京湾に巨大津波はこないという想定は果たして大丈夫なのか?

 海抜0m地帯とは、海岸付近で地表面の高さが、海水面の平均的高さ=Apゼロの数値よりも低い土地をいう。東京都では下町を中心に124㌔㎡、愛知、佐賀、新潟に次ぐ、4番目の広さである。東日本大震災での津波では、東京湾東京地域では1,5mの津波が襲来、船橋では2,4m、木更津では2,8m、旭市では7,6mの津波が襲来した。利根川では、18,.8㎞まで津波が遡上した。将来、巨大地震により7~10mの津波が発生することを想定すると、浦賀水道から東京湾に入った津波は、お台場を超えて隅田川を遡上、築地、新橋、銀座、日本橋地区に浸水、本所、深川、浅草地区にも及ぶ。また、東京地域には東京湾からの逆流を防ぐため、水門が44基、防潮扉が46基設けられている。3月11日の当日、水門では2基、扉では4基が中央制御室の遠隔操作に開閉に失敗、人力によった。日本全国の河川、港などの水門、門扉は25,463基、うち遠隔操作可能は742基、約3%に過ぎない。残り97%の開閉は消防団員の人力による。東日本大震災では、この手動による開閉に向かった、岩手、宮城、福島県の消防団員72名が犠牲になった。

 江戸期以降、江戸の街に大災害をもたらした津波、風水害は少なくとも7回を数える。延宝7年(1680)8月26日、台風により高潮が発生、7~8尺(1尺≒30㎝)の床上浸水、本所、深川、築地、八丁堀、浜町界隈では、700人余りの溺死者が出た。寛保2年(1742)近畿、関東地方を大型台風が襲い、利根川水系の水位が上がったため、関東郡代、伊奈氏は水害から江戸の街を護るため、葛西方面に水が流れ出すよう、猿ヶ股堤(千住界隈)を切った。200艘余の救助船で1700余の人々を救済したが、それでも1万人以上の溺死者がでた。寛政3年(1791)9月4日、深川、霊巖島、芝浦一帯を津波が直撃、特に洲崎弁天(江東区木場)では、家屋が津波全体が江戸湾に流されるという大災害をもたらした。幕府はこれを踏まえて、弁天稲荷から西側一帯、東西285間(1間≒1,8m)南北30間、総坪数467余坪≒18,000㎡の土地を買い上げ、空地として人が住むことを禁じた。これを記して「葛飾郡永代浦築地」の石碑が建てられている。文政4年(1821)8月には諸国に風水害がもたらされ、続く7年8月には、関東、東北地方にも大水害が発生、11年6月全国に大洪水にみまわれた。天保3年(1832)からの「天保の大飢饉」に続き、安政3年(1856)を台風と高潮が襲い、水戸徳川の軍艦が金杉に、薩摩の軍艦が高輪に打ち上げられた。明治維新後も風水害、津波は首都圏を襲い、大正6年(1971)10月1日の台風で、佃島で73㎝、木挽町で1m、月島では1,7mの道路冠水をみた。都港湾局と建設局が、護岸耐震性と津波による冠水の怖れに対応しているが、これによるインフラの破断、情報手段の寸断も心配される。また、被災後の避難、生活の維持にも問題が山積みであるのが、地球上で生活する人類の共通の課題である。た。


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