江戸物語88<番外編> 江戸災害史 第1章巨大地震

 2023年は大正12年(1923)9月1日に発生した「関東大震災」より100年目となる。我々人類がこの地球上で生活を営む限り、我々は自然がもたらす災害から逃れる事は出来ない。故に、我々は自然の変化に上手く対応しながら、リスクを回避若しく大きな災害が小さな災害で済むように体制を整えるなどして、自己の安全な生活環境を維持していく他、道はない。先人たちが自然災害にどう立ち向かってきたのか、どう対処してきたのか、それを歴史に学ぶことは大事なことである。過去の大震災を記憶に留め、その記憶を後世に続く人類に役立たせるために、令和メルマガ<江戸瓦版>HPも、新シリーズ「江戸災害史」を立ち上げ、江戸期に発生した地震、津波、噴火、飢饉、火事など、自然災害、人災を含め年代順に御紹介、人生100年、先が読めない時代の危機管理の参考にして頂ければ幸いである。

 <巨大地震(megafureiku)>江戸の頃から怖きものは、地震、かみなり、火事、親父と相場が決まっていた。太平洋戦争で我が国が惨敗、焦土と化してから、民主政治のおかげで、親父は家長から他の家族と同位置に置かれ、妻のよき伴侶、子供たちのよき相談相手となっている。そして怖きもの筆頭「地震」は、江戸の頃は水の中に生息するナマズが主役であり、ナマズが地震を起こす張本人であると信じられてきた。江戸時代、災害に対する日頃の体制、用心として、庶民は「要慎籠(ようじんかご)」を作り、この中に水や食料、薬などを常備していた。現在の防災リュックである。また、江戸大奥においては、女中たちは夜間でも、災害発生に備え太鼓帯を解かず、結び目を背中から腹の方に廻して就寝していたという。現在、仮にメガフェイクが発生したとすれば、建物の倒壊、火災の発生、津波の襲来、液状化現象が想定される。また、電子機器、情報機器の壊滅も予想される。普段直ぐに得られた情報が、寸断され全くゼロになるということは、孤立状態に陥る。また、情報不足からくる風評被害も、大震災時のような社会問題を引き起こす。こうした状況を踏まえ災害時の想定は、常に最悪の事態を頭に入れておく事が大事である。「想定の範囲外でした」で済む問題ではない。災害時は想定にとらわれずに、率先して避難者になることが大事である。

 <元禄関東地震>元禄16年(1703)11月23日、丑の刻(am2:00頃)千葉県野島崎近海を震源地としたⅯ8,2の巨大地震が発生した。相模トラフ上で発生したプレート地震である。野島崎はもともと独立した小島であったが、この地震で4mほど隆起して陸続きとなった。三浦半島では1,7m隆起、両国、本所、深川では1,5mの津波が襲い、鎌倉でも八幡宮の足元まで津波が襲い約600人が流死、伊豆大島でも10m前後の津波が発生した。江戸各地でも地面が5~6尺≒150~180㎝程裂け、「液状化現象」が発生した。液状化現象とは通常では砂の粒子がかみ合って安定しているが、そこへ地震の揺れが加わる事によってかみ合いが外れ、砂の粒子が水の中に浮いた状態を指す。海岸の埋め立て地、かっての川や沼であった土地、干拓地などで発生し易い。江戸城の石垣も崩れ、深川三十三間堂も倒壊したが、幸いにも24日の夜から雨が降り始めたたため、地震にはつきものの大火災の発生には至らなかった。こうした情報は、5代綱吉の側用人柳沢吉保のもとに寄せられてきた。その日記「楽只堂(らくしどう)年録」によれば、この地震の被害が大きかった地域は、相模、小田原、品川の京浜地帯や安房、上総などで、関東一円で3万7千人余りが被災した。更に、余震が続く中で小石川の水戸屋敷から出火、本郷から湯島、上野、神田と燃え広がり、大川を超えて、本所、深川まで燃え広がって鎮火した。5代綱吉は神田錦町にあった、真言宗の寺院「護持院」の隆光を江戸城に呼び出し、加持祈祷を行わせた。護持院は綱吉が元禄元年(1688)湯島にあった知恩院をここに移して、幕府の祈祷所とした寺である。11月28日になると幕府は伊勢神宮、京の寺社、江戸の山王日枝、神田明神,鎌倉の八幡宮など、全国の神社仏閣に加持祈祷を行うよう命じた。いかにこの地震を恐れ、その後の平穏を願ったのかが伺われる。

 <宝永大地震>宝永4年(1707)10月4日、南海トラフ沿いに発生したプレート境界地震でる。震源は遠州灘沖から紀伊半島沖、東海地震、南海地震が連動したものと考えられ、江戸時代最大規模、Ⅿは8,6、死亡者は2万人を越した。これに連動して、貞観6年(864)以来の富士山が11月23日、五合目付近の東南斜面で大爆発、西部から東海地方まで津波が発生、紀伊半島熊野灘には10mを超える津波が襲った。この地震で伊勢、紀伊、阿波、土佐など併せ5千余人が死亡、5万6千軒余りの家屋が全壊した。土佐、紀州、鳥羽藩などでは被災した者たちに救済米を支給、延岡藩、佐伯藩では城下が浸水したために、城門を開いて領民を城内に受け入れ粥などを施した。また、年貢米の減免や来年の種籾の貸与などの対策も行われた。救済事業は民間でも行われ、橋の復興が町の費用で賄われたり、相互扶助や寺院による施行もあった。こうした中、犠牲者の供養が人々の心の支えとなるために、各地で供養塔が建てられた。「自今以後 大地震時は覚悟あるべき事」の教刻が刻まれた。

 <安政の大地震>安政年間(1854~59)には、列強の船舶が日本の沿岸に交易を求めて接近、全国で巨大地震が発生したため、幕府はその対応に頭を悩ませていた。年号を嘉永から「庶民が政(まつりごと)に安んじるように」と願いをこめて、「安政」と改めたのが嘉永7年の11月、従って7年は安政元年となる。こうして期待を込められた安政であったが、この希望的観測は見事に裏切られる。安政元年、6月15日、Ⅿ7,2の「伊賀上野地震」が発生、同年11月5日、紀伊半島から四国沖を震源地とした「安政南海地震」が発生、Ⅿ8,4を記録した。この地震の2日前の11月3日に、伊豆下田の福泉寺で対露交渉が行われていた。ロシア船ディアナ号は下田湾に錨を降ろしていたが、この地震で鎖が切れ、流され崩壊してしまった。下田市街も家屋が倒壊、出火、津波が発生したため、街は原野のようになってしまったという。

 安政2年(1855)、10月2日、亥の刻(pm10:00)頃、江戸湾荒川河口付近を震源地とする、Ⅿ7の直下型地震「安政の大地震」が発生。四方に火の手があがったが、幸いこの日は風が弱かったため、火事は明け方には殆ど消し止められ、大火事には至らなかった。しかし、倒壊した建物の下になって多くの人々が犠牲になった。小石川の水戸屋敷では、戸田忠太夫(家老)や藤田東湖(儒学者)など多くの人が犠牲となった。藤田東湖は老いた母親を救い出そうとして、自身が建物の下敷きとなって圧死した。この大地震は元禄16年以来であり、10月末頃までに120回以上の余震を記録した。大きく揺れた地域は、本所、深川、鉄砲洲、築地、浅草であり、以前、日比谷入り江の埋立地であった「大名小路」では、多くの大名屋敷が倒壊した。江戸町奉行所の調べでは死者4千人余り、負傷者3千人余り、倒壊家屋約1万5千軒、この数字は両奉行所管内での数字で、江戸市内全体では到底この数字では賄い切れない。 また、新吉原から発生した火事は、町方へ届けられた死亡者630人、うち100人が男性、残り8割強の530人が遊女たちであった。地震が発生した亥の刻は、新吉原はまだ宵の口、火の手はあちこちにあがり、たちまち火の海と化した。おまけに浅草田圃を埋め立てた地盤は、液状化し揺れは倍増した。逃げまどう遊女たちは、周囲がお歯黒どぶに囲まれ、加えて避難用の跳ね橋も降ろされず、唯一の出入口の大門にも火の手が廻り、ただ右往左往逃げ廻るだけであった。また、三浦屋の遊女たちは穴倉に避難したが、こちらも押し寄せる火の手に取り囲まれて焼死した。廓内では常に弱者が犠牲にされた。同じ様な事件が太平洋戦争終戦時にも、浜町明治座でも起きた。B29からの焼夷弾から逃れようと、多くの人々が堅牢な明治座に避難した。そこまでは正解であった。しかし、その後火の手が建物を覆い、鉄の扉の鍵が熱のために溶け開かなくなってしまった。窓を割って外へ逃げ出した人たち以外、多くの人たちが建物内で熱波の為に、二酸化炭素中毒、呼吸困難に陥り亡くなった。安全と思われた建物が、地獄の箱と化したのである。江戸初期には、明治座の西側に浜町川をはさんで「元吉原」があった。炎上した新吉原はこの年の12月から翌春にかけ再建され、安政4年には完全復興をとげた。江戸っ子たちのバイタリティを感じさせる。幕府は大地震が発生してから2日後の10月4日、浅草広小路、深川大工町、上野山内など六ヶ所で「御救い小屋」を設け、炊き出しを行った。民間でも運よく難を逃れた人たちから、米や味噌、金銭や急場しのぎの品々が、困窮した人たちに配られた。子供たちや女性たちにはお菓子なども配られ、人々は癒され束の間、地震の怖さを忘れホッとした。他国からきて江戸に共に住む江戸っ子たちが、災害時にはそれを忘れ「袖すり合うのも何かの縁、お互い様だよ」と サラリと手を差し伸べていった。



 

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