<江戸メデカルレポート>長生き、厄除けの橋「大井川・蓬莱橋」
偉大な水、大きな水の名をもつ大井川の源は、南アルプスの山峡間ノ岳(あいのたけ、3189m)である。明石山脈と白根山脈の間(駿河国と遠江の国境)を南流、山林地帯や川根の茶畑を抜け、駿府湾に注ぐ総延長168㌔mの、日本でも有数の急流である。
天正18年(1590)秀吉は小田原・北条氏を滅ぼし、家康に関東への転封を命じる。家康の旧来の領地、駿河は中村一氏に17万石で与え、遠江は堀尾吉晴に浜松12万石、山内一豊に掛川6万石で与え、甲斐や信濃にも同様、子飼いの大名たちに与え、家康の封じ込めを狙った。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが始まると、東海道筋の大名たちは、秀吉の思惑に反し、こぞって東軍側に就いた。天下を握った家康は、一豊を土佐へ転封したのを始め、東海道筋の大名たちを西国へ追いやり、これらの領地を徳川幕府は、天領、親藩、譜代で固め、江戸の防衛に充てた。それと併行して東海道筋の川も江戸防衛の為、橋を架ける事を禁じ、周辺の村々には舟を置く事も禁じた。逆の見方をすれば、多摩川下流の六郷川のように、度重なる氾濫により、貞享5年=元禄元年(1688)~明治5年まで橋は架けられなかった様に、東海道筋の大井川、天竜川、富士川などでは、恒久的な橋を建設するのは、経済的にも技術的にも困難であったに過ぎない。元禄9年(1696)幕府は大井川の両岸、島田宿(江戸から24次目)と金谷宿に「川会所」を設け、川越人足の肩や輦台(れんだい)に乗って川を渡る、川越制度とし道中奉行の直轄とした。人足は両岸350人常駐、彼らは幕府直轄の下級官史で、それ以外の人足は雲助と呼ばれた。常水を二尺五寸とし、人足の肩を越える四尺五寸で一般人の通行を禁止、五尺で公用も含め、一切の通行を禁止した。これを川止め、川留、川支(かわづかえ)と呼んだ。箱根八里、鈴鹿峠と並んで、東海道筋の最大の難所、「越すに越されぬ大井川」を無事に越した旅人たちは、渡った先の宿場で「水祝い」をしたという。
慶応3年(1867)「大政奉還」をした、15代慶喜は維新後に駿府に隠退。その慶喜の身辺警護をしていた旧幕臣たちは、明治2年の「版籍奉還」によりその職を解かれたため、不毛といわれた牧ノ原台地に入植、茶畑の開墾を始めた。これを物心両面からサポートしたのが勝海舟である。鉄舟、呑舟とともに幕末三舟と呼ばれ、その鉄舟と一諸に西郷隆盛を相手に「江戸無血開城」に導いた男である。維新後、慶喜の名誉回復、徳川宗家の維持、旧幕臣の処遇改善に力を注いだ。明治3年、天障院の英才教育を受けた亀之助は、徳川宗家を継ぎ家達を名乗り、16代当主となって、静岡藩70万石の藩主となった。谷口原(牧ノ原台地)の開墾が進んだ明治11年、島田の農民から架橋の要望が高まり、それまで舟で渡っていた大井川に、翌12年1月橋が完成した。橋の名称については、藩公(家達)が「谷口原は宝の山である」と称した処から、それに因み「蓬莱橋」としたら如何と意見が出され、1月13日付けで正式名となった。
「蓬莱山・peng-lai-shan」とは、広辞苑などによると,古代中国、東の海上にある仙人の住むといわれる想像上の仙境のひとつであり、山東省の東の海、渤海湾中にあり不老不死の仙人が住む山を蓬莱山と呼んだ。日本では富士山、熊野山、金華山、熱田神宮など霊山、仙境の異称とされている。古代中国の国、燕や斉の王たちは、不老不死の神芽(果実)があると信じていた。また、秦の始皇帝も方土の徐福を遺わしたが、「遠く望めば雲のようであり、近づけばどこかに去っていく、常人には至れ得ない処」であった為、黄金の国、日本にやって来たという。また、唐の時代には、李白、杜甫、王維、白居易などの詩人たちによって、蓬莱山が「福」「禄」「寿」の象徴と詠まれた。日本においても、「竹取り物語」では主人公かぐや姫は、求婚者の一人車持皇子に、蓬莱山の玉の枝を採集してくるようにと問題提起、この提案を残したまま、月へ単独戻っている。川柳では「不二山も 蓬莱山も 橋で見え」となる。橋とは日本橋や蓬莱橋の事であろうか。
「蓬莱橋」は、JR島田駅から歩いて約20分、農道に分類され島田市農林課の所轄、自転車、歩行者からは¥100(定期¥800/月)の通行料を頂く賃取橋である。この橋、ギネスブックにも登録されている世界一長い木の橋=長生きの橋で、長さも897.4mとドンピシャ、厄なし、厄除けの橋となる。島田側から欄橺が低い蓬莱橋を、富士を眺めながら15分程渡ると山道に入る。少し上ると二手に分かれ、左の七福神の小径を進むと、緑の台地が一気に拡がる。茶畑の高い場所に立つのは慶喜の護衞隊長、牧ノ原台地開墾の中心的人物、中條金之助堅脇の像である。ここからは茶畑が一望、その向こうに大井川が滔々と横たわっている。
ベストシーズンは夏も近づく5月初旬の八十八夜の頃、新芽を愛でながら小径を進むと休み処に着く。この辺りは地元の住民たちの手によって復活した全長611mの「菊川坂石畳」である。そのまま進めば「夜泣き石」伝説で有名な「小夜の中山」久延寺に着く。掛川城主であった山内一豊が、境内に茶室を設け、関ヶ原に向かう家康をもてなしたという。約5㌔のハイキングコースは休み処を右に折れ、金谷坂石畳を下がる。昔は日坂(にっさか)まで、石畳が敷かれていたが、現在のものは、平成の道普請として、金谷の町人の人たちの手造りによって復元された、430mの金谷宿に至る坂道である。春爛漫、桜の季節に訪れると、苔蒸した石畳の両側に植えられた老木が、花のトンネルを作って旅人を迎えてくれる。坂の入口には石畳茶屋が優雅な佇まいをみせ、煎茶とお菓子で一服していると、山岳列車、大井川鐡道が走る新金谷駅方向から、SLの汽笛が聞こえてくる。また、可愛い孫への土産は、島田宿では、松江藩主であった茶人不昧公が助言したとされる「小まん頭」、掛川では「葛餅」がお勧めだ。 「江戸純情派 チーム江戸」 しのつか
0コメント