「江戸名所四日めぐり」⑦北コース ㋺新吉原・向島

 待乳山聖天から北へ一丁≒109m進むと山谷堀、日本堤が「新吉原」への道となっている。日本堤は対岸の墨田堤と共に江戸の町に対して「逆八の字」に築かれた江戸の町の防波堤である。江戸幕府は将軍様のお膝元を護るために、隅田川上流からの大水をここで止め、ここより上流地域を犠牲にして城下町(しろしたまち)を守った。この政策により江戸の河岸地は守られたが、常に上流地域は洪水の危機に見舞われ、その分発展も遅れた。山谷堀と対岸三囲神社を結んでいたのが「たけやの渡し」である。待乳の渡しとも呼ばれたこの渡しは、文政年間(1818~29)に始まり、昭和8年、言問橋が架けられるまで続けられた。三囲で煙草を吸いながら待機している船頭を、たけやの女将は「たけやぁ~」と、メゾソプラノで約1丁半の船頭を呼び寄せたという。

 神田川河口、柳橋からの猪牙舟をここで降りた粋客は衣装を整え、日本堤の土手道を約6丁進むと「新吉原」。目印の見返り柳(現在3代目)を見ながら、だらだらと曲がりくねった衣紋坂を50間ほど進むと、吉原唯一の出入口「大門(おおもん)」。その先が吉原のメイン通り「仲の町」の通り、ここで春の花見、夏の八朔、盆の燈籠祭など四季を彩るイベントが開かれ、吉原特有の文化が育まれた。明暦2年(1656)移転を求められた、元吉原(人形町)の廓の年寄りたちは、ここより1,5倍の敷地の使用と夜営業の許可、湯女風呂の全面禁止、更に1万5千両の移転料を得て、翌3年、陸続きの浅草寺裏浅草田圃に移転した。これを受けて元吉原の遊女たちは、浜町河岸から衣装を凝らし、屋形船を仕立てて引っ越していった。これより昭和33年の「売春防止法」完全施行まで約340年間、「生きては地獄 死しては三ノ輪の浄閑寺」の女郎哀史は続く。(HP人之巻「花の吉原光と影」をご参照)

 平安末期、頼朝も渡ったとされる記録に残る隅田川最古の渡し「橋場の渡し」は、現白鬚(しらひげ)橋辺りである。口ひげは髭、頬ひげは髯、顎ひげは鬚の字を書く。隅田川を東へ渡ると、浅草の向こうがわ「向島」となり、隅田川左岸を「墨堤」という。4代家綱の頃から、吉野山の桜が木母寺辺りから植樹され、8代吉宗の代まで枕橋辺りまで続けられた。上野の山の夜桜見物を懸念した吉宗は、江戸庶民が気兼ねなく桜見物を楽しめるようにと、墨堤や飛鳥山、品川御殿山、玉川上水際の小金井などに、積極的に桜を植え庶民の憩いの場とした。因みに飛鳥山の飛鳥は、吉宗の出身地紀伊和歌山の新宮、飛鳥明神の分霊を祀った事による。梅若伝説の「木母寺」には、江戸の頃は川魚料理などを出す料亭が並び、将軍家が狩に訪れた際の御膳所になっていた。謡曲「隅田川」では、京の公家の子、梅若丸がかどわかされ隅田川のほとりで死んでしまう。探し尋ねた母は、「訪ねきて 問わば答えよみやこどり すみだの河原の露と消えぬと」と嘆き悲しむ物語である。「梅」の字の偏の「木」と旁の「母」を寺号としている。

 「白鬚神社」の東側は現在の都立向島百花園、天明年間(1781~88)奥州仙台から江戸へやって来た北野屋平兵衛(北平)は諸大名や旗本相手に骨董屋を商っていた。この頃、太田南畝(蜀山人)、加藤千蔭や酒井抱一などの文人墨客と知己を得た。北平は隠居後、鞠鵜と称して向島寺島村辺りに3千坪ほどの土地を購入、亀戸天神の梅屋敷の向こうを張って「新梅屋敷」を開園した。ここへかの文人墨客たちが毎日のように訪れ、勝手に庭を造り持ってきた苗木を植え始めた。蜀山人は「花屋敷」と看板を上げ、詩仏は「春夏秋冬花不断 東西南北客争来」と、左右の柱に書き込んだ。こうして野趣に溢れた庭園が出来上がった。園内には芭蕉などの句碑の他、文字通りのいろいろな木々や草花が咲き乱れ、秋にでもなると、萩のトンネルが千客万来を招く。また、当時この辺りは花屋敷に限らず、辺り一面に田園風景が拡がる長閑な農村地帯であった。この為か日本橋界隈のお店の主は、頻繁に発生する火事から家族を守るために、この地に別荘を兼ねた家を建てて対応した。また、目的は別だが人によつては家族ではなく、自分の個人的好みの異性を住まわせていた。いつの世にもいろいろな対応を考える人たちは多い。(HP番外編<江戸花暦>四季の七草をご参照)

 ここより隅田川左岸の墨堤は「花より団子の向島」の世界である。この世界にある「長命寺」は現在の桜橋東詰にある。3代家光が鷹狩の最中に腹痛に見舞われた際に、この寺の井戸の水で薬を服用した所、痛みが緩解したという。これ以来この寺を天台宗延暦寺の末寺長命寺と呼ぶ。元和元年(1615)創建されたこの寺は「隅田川七福神」の弁財天(隣の興福寺は布袋様)を祀り、「いざならば 雪見のころぶ ところまで」の芭蕉句碑の他、太田南畝や十辺舎一九の狂歌碑がある。元禄14年(1619)頃から、下総銚子生まれの山本新六は長命寺で寺男をしていた。毎年見事に咲く桜の木の花と葉を掃除しながら考えた。この花と葉を何とか再生できないものか?現在でいうリサイクルである。享保2年(1717)に売り始めた桜餅は、文政7年(1824)には桜葉を塩漬した樽を年間31樽製造、1樽2万5千枚入り×31樽=77万5千枚を1個で2枚使うとして、38万7千500個の桜餅が売れた勘定になる。1個4文売りを想定すると年間売上は228両となった。実際は土手の左側にあった大黒屋という店の品物が旨く、通人はこの店で買ったという記事もある。関東風の桜餅は、小麦粉を水で溶いで薄くのばして焼いた餅に、アンを挟んで桜の葉に包む。関西風の道明寺は小豆アンを粗挽きのもち米で包み、葉で巻いた丸型をしている。ここで江戸小咄をひとつ。郷から江戸への用達を終えて、長命寺の桜餅をほおばっていた在の人に、お節介焼きの江戸っ子が「おめえさん それは「皮」をむいて食べるもんだよ」と声を掛けた。云われた御本人「そうけ」と素直に「川」に向かい直して、相変わらず葉をつけたまま食べた続けたという。おあとがよろしいようで。桜餅に加えて「言問団子」は維新以降、仕事が減り始めたある植木屋夫婦が、一念発起団子屋を始めた。が、元植木屋さんの団子はいろんな事情で、さっぱり売れなかった。それを見た粋人が店の名を考えて「言問団子」と命名した。この名を見た江戸っ子たちが、「いざ言問わん」の業平の時代からの由緒ある団子だと勘違いして、味や見てくれの改良もあって徐々に買い始めたから大したものである。店の名称も店繁盛のひとつであることが証明された。

 隅田川を水戸家下屋敷(隅田公園)辺りまで下りてくればその手前が「牛の御前(牛嶋神社)」御前に赤い涎掛けを奉納、それを家に持ち帰って子供や孫に掛けると、その子は丈夫な子に育ったという御利益がある。小さな子どもの順調な育成が困難であった江戸時代、この御利益は貴重であった。北隣が「三囲神社」。元禄年間(1688~1703)芭蕉の一番弟子と云われた其角がこの神社を訪ねた際、折からの日照り続きで近郊の村人は雨乞いを三囲の神様に願っていた。其角と会った名主たちは、是非雨乞いの一句と其角に切望した。其角は持ち前の江戸っ子気質で「ゆふ立ちや 田をみめぐりの 神ならば」と一句したため神社に奉納した。古代中国の三国志、蜀の宰相諸葛孔明の祈りは、「赤壁の戦い」でたちどころに大雨を降らせた、江戸の其角の句は翌日に雨が降ってきたという。また、三囲という字は「井」を囲んでいる字に読めるため、日本橋に開店している三井越後屋は、店の守り本尊と定め長く信奉している。尚、三囲の鳥居は「寛政の改革」以前は新吉原へ舟で通う粋人からは今日の首尾をということで、「首尾の松」と共に祈願されてきた。しかし、風俗を嫌う松平定信によって中洲が崩され、その土砂は石川島人足寄場とここ三囲の土手の補強に使われた。故に土手はかさ上げされ、鳥居は半分見えなくなってしまった。御利益が半分になったという話は伝えられていない。さあもう黄昏時である。宿の女将が心配して待っている。隅田川江戸5番目に架けられた「吾妻橋(竹町の渡し辺り)」を対岸に渡って南下すれば、我が宿馬喰町の公事宿はもうすぐである。(次回はいよいよ最終コース、江戸の東・深川へ足を運びます) 「江戸純情派 チーム江戸」しのつか でした。

 

0コメント

  • 1000 / 1000