<江戸色彩の研究> 第3章緋色の研究 ①冠位十二階
<History>古代から赤は魔除け、厄除けの色であり、祈願の色であった。祝や年中行事には欠かせない「ハレの日の色」であった。太陽が昇り1年が明け1日が始まる。その「アケル」という言葉が「アカ」になったと云われる。人間が太陽の光の恵みを受けて赤という色彩に関心を示していった。原始時代、自然発生した山火事によって「火」の存在を知り、その火を生活に取り入れはじめたのは、凡そ40~50万年前の北京原人だとされている。火を灯して暗闇の恐怖から解放され、火を燃やして暖をとり、獲ってきた獲物を焼いて食べた。また、土を焼いて陶器を造り食べ物を保存、色々な道具を作って生活を豊かにしていった。こうして太陽と火の赤、自分の身体の中に流れる赤い血液は、人々の神聖な色となっていった。石器時代の土偶、古墳時代の埴輪の頬に大きく朱が塗られていた。また、古代の古墳においては貴人の玄室(棺を納める室)に赤い顔料が施されていた。死後の貴人を守護する悪霊祓いの役割を果たしていたとされている。正倉院の「鳥毛立女屏風」には、ふくよかな頬や唇に紅がさされた唐風美人が描かれている。化粧は神への祈りとして、儀式、祭礼などでは、ひときわ艶やかな化粧をして、豊年万作を祈願した。こうした伝統化粧の中では白粉の肌の「白」、頬や唇の「赤」、髪の毛の「黒」の三色がその中心であり、それらを彩ることにより、女性たちはより華やかになっていった。3th頃の日本人の生活風習を伝える「魏志倭人伝」にも、卑弥呼の住む耶馬台国を「真珠、青玉を出だす。その山には丹(朱)あり、その朱を以って其の身体を塗る。中国の白粉を塗る如きなり」と記されている。
推古11年(603)聖徳太子によって、冠位十二階が定められた。この制度は中国の陰陽五行説に基づいて、律令国家としての日本の体制を服飾の色彩によって確立しようとするものであった。道教の徳目、徳、仁、礼、信、義、智をそれぞれの大小に分けた12の位を制定、それに紫、青、赤、黄、白、黒の6色を対応させた。大化3年(647)の冠位十三階では、身分としての緋色は紫色に次いで第2位に位置、貴人階級を象徴する色であり、他の者が使用することを禁じた「禁色」であった。また、建物を赤で彩色する習慣は、神社仏閣に多く見られ、聖徳太子の霊を慰撫する法隆寺も朱色に彩られた建造物であった。「青丹によし 奈良の都の咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」この青丹とは、青い甍の建物と朱色に輝く神社仏閣の伽藍が建ち並ぶ、奈良の都の様子を表現している。紫式部や清少納言が活躍した平安時代になると、高価な紅花を沢山使用する濃い紅花染めの装束は、低い身分の役人や庶民たちの着用を禁じた。有職故実を記した「西官記」には、一の上(摂政、関白)の位の人のみが着用出来る色としている。こうした色は「禁色」であり、この対となるのが「聴(ゆるし)色」である。紅花染めならば、一斤≒600gの紅花で絹一疋を染めたものを<一斤染>(いっこんそめ)といった。非常に淡い桃色で、これ以上薄い紅花染めならば着用を許された。誰しも濃い紅で着飾りたいという、願望の証のような色である。また、反対に濃い紅色をした、平安王朝の女性たちに愛された、紅花染めは<今様色>と呼ばれ流行した。
室町時代末期から戦国時代、<猩猩緋(しょうじょうひ)>色で染められた毛織物や羅紗が南蛮船で運ばれてきた。染料はてんとう虫に似たコチニールという昆虫のオスを乾燥させて粉末にしたもので、その鮮やかで刺激的な赤い毛織物を、信長などの戦国大名たちが買い入れ、陣羽織などにして士気を高めた。一方で秀吉により切腹させられた茶人利休は、全てのものを削ぎ落した後に残る「やつしの美」を追求、冬の椿を活ける際に「一花二葉」とした。「多即一」つまり、ただ一点に凝縮することで、瞬間瞬間消えていく「一期一会」の美を表現していった。
江戸中期に入り、庶民層が次第に経済的なゆとりを見せるようになると、幕府は「奢侈禁止令」を度々発令した。寛永6年(1628)「百姓分之者は布木綿たるべし」とし、木綿以外のものの着用を禁じた。更に、同20年には「庄屋百姓共に衣類、紫、紅梅に染間敷候」と、紫根染めの本紫、紅花染めによる紅梅色の着用を禁じた。これらの規制に対し、江戸っ子たちは法に抵触しない考えをめぐらし、着物の表地には地味な木綿縞、唐織、格子縞を使用、その裏地には絹織物を使用したり、色彩も本紫や本紅梅の代わりに、偽紫、偽紅梅などを創り出して楽しんだ。また、地味な茶やネズミ色を多用、江戸っ子の意地を通し、粋を張り合い生活を楽しんでいった。また、染織の世界では、古田織部の花染や宮崎友禅斎による友禅染が登場、明暦大火(1657)以降、重厚な着物より簡易染めの小袖への嗜好が高まり、これらが江戸にも広まっていった。承応年間(1652~54)京都長者町の桔梗屋甚三郎は、紅花ではなく、茜若しくは蘇芳で下染めした布を酢で蒸し返し、本紅と変わらぬ紅色を創り出すことに成功した。この色は<甚三紅(じんざもみ)>また、多少色が薄いので<中紅>とも呼ばれ、値段が安かったため規制の対象にならず、江戸の町でも人気を博した。
緋色・赤は魔除けの効用があるとされるため、江戸歌舞伎の世界でも重要な役割を演じている。歌舞伎十八番、荒事の主役の隈取りは強さ、正義、勇気を表わす「紅隈」で化粧する。これに対し敵役は「藍隈」の化粧である。同じく十八番「助六由縁江戸櫻」では、助六は紅花染めの衣装を表着ではなく、長襦袢として着用、黒の着流しとの粋・コントラストを狙っている。また「赤姫」はお姫様役で、緋綸子や緋縮緬に金糸銀糸で縫い取りした赤づくしの振袖で登場する。この赤は純情や可憐さを表している。この赤色は武士、公家階級の婦女子の間においても、紅花で染めた赤い着物は憧れの的であり、この衣装を着た彼女たちは、歌舞伎の世界と同じように赤姫と呼ばれた。一方、江戸の娘たちは娘たちで、衣装、化粧(けわい)に対してはこだわりを持っていた。歌舞伎役者や新吉原の遊女たちの厚化粧、厚衣装に対し、スッピンにヘチマ水で肌を整え、唇や頬に紅を刺した。後期に入ると口紅が化粧のキーポイントとなり、紅花の色素だけを抽出した本紅が、京の「小町紅」のブランドで江戸でも流行った。文化2年(1805)に描かれた「凞代勝覧絵巻」においても、日本橋通町筋でべにや(化粧品店)が紅色の旗をあげている。この小町紅は重ね塗りをすると緑がかった玉虫色に変化してくる事から「笹紅」とも呼ばれ、江戸娘たちの人気をよんだ。江戸川柳にも「少々は おまけ申すと 小町紅」と詠まれるように、紅は高価であったため、エコノミーを好む娘たちは、まず唇に墨を塗り、その上に紅を引き、大人のけわいを楽しんだ。また新吉原の遊女たちも上唇を薄くかき、下唇を濃く塗って笹紅色を流行らせた。時代を反映して退廃的なムードを醸し出して客を魅了、商売繁盛を願ったが、「天保改革」によって江戸の女性たちの喜び「赤い紅」が禁止された。江戸の町の女性たちは、古代中国の前漢によって、紅花の産地が略奪された匈奴の女性たちのように、化粧する喜び、生きる喜びを失ってしまった。それは、同じ社会に生活する男たちにとっても同じであった。
次回は緋色の染料「茜」「蘇芳」「紅花」などに迫ります。「チーム江戸」しのつかでした
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