9 元禄回顧
5代綱吉の治世下、延宝8年(1680)から元禄期(1688~1703)の16年を経て、宝永6年(1709)1月10日64歳で死去するまでの有職期間の前半は、儒学を重んじる姿勢であったため、多くの儒学者を輩出するきっかけにとなった。従って基本的には善政として「天和の治」として評価された。4代家綱は40歳で死去、次兄綱重も既に亡くなっていた為、4男の綱吉に思わぬ番が廻ってきた。しかしその綱吉も世継ぎに恵まれず、甥(兄綱重の子=甲府宰相綱豊・家宣)にいやいやながらその座を譲り、64歳で麻疹により死去した。綱吉の治世を通して、46の大名家が改易もしくは減封、1297名の旗本・御家人が処罰された。その処罰の理由は、勤務不良408名の他に、故ありてが315名であった。この意味不明の言葉によって処罰された旗本の32%は近習・小姓たちであった。この時代恣意的な人事が行われていたことが伺われる。また、元禄文化の華が開いた時代であったが、全体的に綱吉の評価が低かったのは、相次ぐ飢饉や火事、地震、火山噴火など(江戸瓦版・災害史を御参照)、人災、天災が多かった事にもよるが、江戸っ子たちはそうは見ていなかった。こうした天変地異が起こるのは、天罰=主君の徳がないために起こるのだ と考えていた。
延宝8年柳沢吉保を登用した年、関東は大凶作となり米価は高騰した。滑り出しから難問蓄積であった。館林からついてきた吉保は、その後元禄元年(1688)に側用人、7年老中職、11年には大老扱いと、異例の出世を遂げていく。貞享元年(1684)8月、若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を城内で殺害、死人に口なしで稲葉も直ちに殺されるという事件がおこる。自身の将軍擁立に力をかしてくれた正俊を、その存在が疎ましくなり、抹殺にかかったとも伺われる事件であった。綱吉はますます当たりの良い家来たちを側に置き、自己裁量が出来る政府を目指していった。これに関連した事件にこういうのがある。天和元年(1681)大老酒井忠清が辞職、5月に死去したが、酒井忠清といえば5代擁立に際し綱吉を阻害した人物、このことに執着し酒井家の改易をめざした綱吉は、忠清の墓を調べさせて死因の原因究明に躍起になったといわれるが、結局何もわからなかった。綱吉の性格が伺われる事件であった。貞享2年(1685)最初の「生類憐みの令」が発令された。江戸期を通して最悪と評価されるこの法令は、綱吉が死ぬまで足掛け15年、対象物を変えて何度も発令された。この法令の本来の趣旨は、動物、嬰児、障害者などを保護する事を目的としたものであり、諸法例の通称を生類憐みの令と称していたのであるが、この趣旨とは大きくかけ離れ、僧隆光の「上様には戌歳の御生まれにて」の一言で、世継ぎに恵まれない綱吉・桂昌院母子が、御犬様大事にのめり込んでいった。儒学に傾倒した結果が平衡性を失い、偏狭的な考えに陥っていった。
元禄年間に入り戦国時代からの政治、社会も変わっていった。明暦の大火(明暦3年=1657)を境に、武断政治か文治政治に切り替えた幕政であったが、綱吉の出現によりその姿勢は変えられつつあった。この頃の江戸町人人口は35.3万人、江戸が町らしくなってきた。元禄8年(1695)勘定奉行となる荻原重秀の建議により、金貨の改(悪)鋳が行われた。これは慶長小判に銀を増量させ、従来の小判1両をほぼ1,5倍に吹き替える(出目)ことを目論んだ。幕府はこの悪鋳によって、幕政予算のほぼ10年分を捻出したといわれる。このマジックに味をしめた幕府は、歴代にわたって自己の放漫経営、将軍や大奥の無駄遣いのツケの穴埋め補填に回していった。これを定期的に行われた、年俸の士分たちや賃貸生活の庶民たちは、インフレにつぐインフレ、物価高につぐ物価高で日々の生活は疲れ果てていった。
元禄14年(1701)3月刃傷事件発生、播州赤穂浅野家は没収され、藩主長矩は即日切腹させられた。かたや吉良はお構いなしであった。こうした老中たちの審議を通さずに下した、綱吉の裁定に浅野の藩士たちはもとより、江戸っ子を自認する江戸庶民誰もが、日頃のうっぷんが溜まっていただけに怒りに怒った。翌15年12月、内蔵助以下47士は見事本懐を遂げた時には、江戸っ子たちは沸きに沸いた。幕閣内でも称賛の声が上がった。これほど綱吉、吉保ラインに不満がたまっていたのである。江戸は浪士たちの活躍で、ある程度ガス抜きされた格好であったが、奥州・北陸地方が大凶作に陥ったのを契機に、出石藩で農民が打ちこわし事件が発生、続いて美作津山藩、丹後宮津藩などで一揆が発生した。赤穂浪士が切腹した元禄16年には元禄大地震が発生、このため江戸は大火事に見舞われた。口さがない江戸雀たちは、これはきっと浪士たちの恨みであろうと噂しあった。
宝永元年(1704)12月、綱吉は家宣を養嫡子に決定した。一人息子徳松が早世、また、一人娘である鶴姫が紀州徳川家に嫁いでおり、この娘婿を6代将軍の据えようと考えていたが、2人共麻疹に罹り死亡、これで直系子孫の将軍継承の目は完全になくなった。甥の綱豊を不承不承6代に認めざるを得なかった。貞享2年(1685)から僧隆光の意見を母桂昌院とともにまともに信じ、庶民おろか士分にまで強制してきた生類憐みの令であったが、何のための法令であったのか、その甲斐もなくこのザマ、この体たらくであった。綱吉自身も何のための法令であったのか、何のために大きな出費をして側室を設け、それに飽き足らず家来の屋敷まで出かけたのか、自分の脳細胞では理解のできない事であった。こうして虚脱状態になっていた綱吉が再度、翌宝永2年、生類憐みの令を数回にわたって発令した。思考の根拠が理解できない将軍であった。それでも綱吉の治世は続いた。同年、幕府は朝廷に1万石増献し、大盤振る舞いをしたと思ったら、翌年には数回に渡って倹約令を出し始めた。倹約令を出す位に財政が逼迫(将軍や大奥のムダ使いのため)しているのであれば、朝廷への献金を避ければよいものだが、何処かの国のように、財源が国民の税金であるため、金銭感覚が薄くその場の思い付き、一貫性のない財政政策に終始していった。
こうした支離滅裂な政治、政策に振り回されていた元禄期の江戸っ子たちは「てやんでぇべら棒め、こちとら喰うものも喰わず一生懸命に働いている人間様でぃ。それを何だ、お犬さまとやらが1日中餌を喰っちゃのたうちまわりやがって。こんなのやってられっか、こっちから願い下げだぁな」世論調査のない時代であるが、大多数の人間の腹の中はこうであった。ただ、大東亜戦争下での我が国のように、声に出しては云えない時代であった。現実に宝永4年(1707)2月、幕府は雑説、流言、落書、捨文を禁止した。幕府に対する批判、反対運動をする者を処罰した。加えて同10月、田地の質入の禁を発令した。幕藩体制の維持のために、何も余計なことを考えず、百姓は田畑を耕し、職人は物を作り、商人はそれを売り、それぞれの仕事に励みなさい といった触れというよりも規制であった。こうした規制は色々出された。倹約令の先ぶれが天和3年(1682)に発令された、庶民に対する衣服制限令であった。元禄文化の華が咲いたとはいえ、贅沢な着物は駄目、色、柄、生地までも規制され、あれもダメこれもダメと庶民たちは窮屈な思いをしていた。そうした幕府の対応に、ハイそうですかと云われたままに従っている、江戸っ子たちではなかった。そのお触れに抵触しない、素材は木綿や麻を使い、色は藍、茶色、鼠を使用した。これが「四十八茶百鼠」も誕生するきっかけとなった。また、遠くからでは柄とは識別しにくい、江戸小紋開発のきっかけになっているから、規制も裏を返せば飛躍となるから面白い。
宝永2年、幕府が朝廷の献金した同じ年、日本諸国の民衆が伊勢神宮に群参するお陰参りが大流行した。子が親に奉公人が主人に無断で、各地からの民衆が集団でお伊勢参りをした。18th初頭、日本の総人口約2870万人であったのに対し、2ケ月程で330から370万人が参詣したという。金銭を持たず、莚1枚、柄杓1本を持ち無断で抜け出し、沿道の施しを受けながら信心の旅に出たため、抜け参りとも云われた。江戸から片道15日、大坂から5日、名古屋から3日、東北釜石からは100日もかけて参拝に出かけた。江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参拝は凡そ60年周期に起こった。この民族大移動により、人間と共に作物の種苗、農機具、工具、思想、芸能、ファッションなど、ありとあらゆるものが伝播していき、伊勢参りによって各国の産業、文化が均一化していく一因ともなっていった。
元禄時代はこうした混沌とした時代であった。相次ぐ天変地異に加え、生類憐みの令を始めとした、自分が何をしているかを理解できていない、専制独裁政治が横行した。世の人々がうっ積にうっ積をためていた時代に、47士の討ち入りがあった。綱吉・吉保ラインに、真っ向から立ち向かっていったばかりか、係累を盾に権力にへつらい、周りの人々を卑下する吉良を見事討ち取った。そこに生きた庶民たち、武士たちが喝采を送らない筈はなかった。人気が人気を呼び、その人気に華が添えられ、後世の人々に語り継がれていく世界になっていった。 <忠臣蔵の世界 完>
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