「忠臣蔵の世界」それぞれの清算 ②
夫上野介と孫義周を失った吉良富子は、上杉家の当主、自分の息子である綱憲だけが頼りとなってしまった。この綱憲は後継ぎのない上杉家に、吉良家から婿養子として入り、紀州大納言の娘為姫を正室として迎えた。その為姫の弟綱教は、5代綱吉の一人娘鶴姫を正室とし、綱吉の世子、鶴姫の弟徳松が若くして死去したことに伴い、甲府宰相綱豊(6代家宣)と共に、次期将軍の有力候補であった。綱吉は一人娘であった鶴姫を溺愛、「鶴字法度」という将軍命令を発布、鶴の字のつく名称や紋などの使用を禁止した。こうして綱豊が自分の跡を継ぐことを嫌っていた綱吉は、ますます鶴姫に傾倒していった。吉保もその1人であった。しかし、いつの世も人生自分のシナリオ通り進まないのが、世の中の常である。可愛いがられていた鶴姫は男子に恵まれないまま、宝永元年(1704)麻疹に罹り27歳で死んでしまう。翌2年、その夫紀州綱教も感染して死亡、これで時期将軍は絞られた。吉保の生き甲斐、政治生命をつなぐものは何も無くなった。今まで引き立ててくれた綱吉もすでに老境に達していた。綱吉亡き後の自己の安泰のため、綱教の擁立に躍起となっていた吉保は、一転して綱吉の甥に当たる綱豊の擁立に奔走した。4代家綱もまた5代綱吉も同じ道を進んでいる。吉保は徳川家の前途を危うんだ。しかし、1番危うい立場にいるのは自分ではないか。吉保は一人背中に粟がたつのを覚えた。元禄元年(1688)御側用人となって以来18年、綱吉の寵愛を受けて何のためらいもなく、幕政を牛耳ってきた吉保であったが、あの刃傷事件以来、ここに来て自分の裁断につき何か手抜かりがあったのであるまいか、上様の思うことにそぐわなかった事をしでかしたのではあるまいか。江戸庶民の考え方と真逆な対応をしてしまったのではあるまいか。吉保の心の底にわだかまりが溜まる一方であった。ある日吉保は徂徠にそのことについて聞いてみた。その答えは「思惑違いは得てしてそのようなものでございます。このうえは災い転じて福となすよう、一層の心入れが肝要かと存じます」と、他人事のような素っ気ないものであった。以来吉保はこの学者の意見を聞くことはなかった。徂徠の方も主人を見限っていたかもしれない。宝永6年(1709)1月10日綱吉は64歳で死去、6代家宣が誕生した。吉保はこれまでのように幕閣の中枢を目指して、新将軍家宣に祝賀を述べに登城した。家宣の返事は「そちはこれより出仕無用」とにべも無かった。
8代吉宗は正徳4年(1714)31歳の時に、「紀州政治録」と題する上下2巻147項目に及ぶ文章を、「一子相伝」として子孫のために残した。この中で元禄14年に起きた刃傷事件ついて書き記している。「諸大名が注視のなか、吉良のような小身者に大名たるものが悪口雑言を云われたら、それは武門の恥であり堪忍難いのは武門の道である。吉良は万事正当に指図すべきをそれをせず、日頃の貪欲非道の悪癖で、浅野に法外な無礼を働いたのであるから、あのような事件が起きたのである。しかるに喧嘩両成敗の法則に反き、喧嘩の仔細を詮議せず、吉良をば無難にさしおき、浅野を乱心として即日切腹を仰せつけるとは、時の老中(綱吉、吉保の意向による)の愚昧なお裁きである。乱心と意趣打ちとは黒と白の相違である。明らかに片落ちである。吉良は欲心非道な者ゆえ、不法な言いがかりをしたために斬られたのであり、吉良の方が罪が重く事件の張本人と言ってよい。それをお構いなしにしたので、大石良雄が部下を指揮して吉良を討ち取ったのである」また、46士の切腹についても「これまた大間違いの政事である。天下に稀な忠義者の命を奪うようなことは、今後諸大名に忠義者はいなくなり、今にも一戦が起こらば、いかなることになるであろうか案じられる事だ」と記し、「物に恐れ上に恐れるということは、命が惜しいからである。主君の命を取られ領地を取り上げられた者たちにとって、恐れるものは何もない。信義に対しては、一命を毛を吹くよりも軽く捨てるのが武士の道である」と結んでいる。
泉岳寺には48基の墓と供養塔が建てられている。間新六の姉婿で老中秋元但馬守の家臣であった、中堂又助が新六の遺骸を引き取り、自分の菩提寺であった築地本願寺に埋葬したため、新六の墓は本願寺にあり泉岳寺には供養塔が建っている。以前は正門左側の木陰にあったが、整備され右側新大橋通り側の陽当りのいい場所へ移された。47番目の浪士、寺坂吉右衛門は内蔵助の密命をおび赤穂に向ったため、墓は天寿を全うした麻布曹奚寺にあり、泉岳寺には「刃遺道喜剣信士」の供養塔が建つ。48番目の供養塔は親と藩の板挟みで切腹した、萱野三平のものだとされている。
寛永元年(1704)瑤泉院や大石理久、その父親の石束家及び広島藩、浪士の縁者たちが、遺児の赦免を求めて活動を開始した。その甲斐があって綱吉治世下の宝永3年(1706)8月13日、桂昌院の一回忌を機に、幕府は遠島になっていた遺児たちを赦免した。更に綱吉死去の翌年の宝永6年、家宣は「生類憐みの令」を廃止、綱吉の代に罪となった人たちに大赦を命じた。こうして赤穂浪士の遺児たち、寺坂吉右衛門も罪を許された。その中に広島藩に預けられていた大学長広もいた。宝永6年安房国において500石を与えられ旗本に復帰、浅野家は再興された。
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