7 「忠臣蔵の世界」それぞれの清算 ①

 近習(藩主の側近く仕える家臣)だった大高源吾は、20石5人扶持、竹林唯七は15石3人扶持であった。扶持というのは、家来を養うための手当で、1人扶持で1日5合の米が支給される。中小姓以下のこの様な武士を「無足(むそく)」といい、自分の領地をもっている訳ではなく、藩の米蔵から支給された。知行取に比べると格下の武士である。打つ入りに参加した47士のうち、16名がこの無足の武士であった。逆に言えば、この16名の無足の武士たちが、今回の討ち入りを支えたと云える。内蔵助は討ち入りに際して、最終的に残った浪士たちの顔を見て、知行取の武士たちがもっと残つていてくれればよかったのにと嘆いたという。知行としての20石は四公五民でいくと、実際には米8石でしかならない。一部を金に換え一部は自分と家族の飯米となる。従って下級武士の給料では、浪人をすると生活をしていくのは大変であったたため、割賦金を取り崩した後は、内蔵助が管理していた準備金から生活扶助を受ける者が少なからずいた。因みに内蔵助の知行は1500石、足軽頭原惣右衛門は300石、吉田忠左衛門は200石の知行取であった。知行取とは、領地から年貢を取る権利で、四公五民なら内蔵助は600石の収入があった。元禄年間(1688~1703)米1石≒150㌔は金にして約1両の値がしたため、1両≒12万円と想定して、現在の金額で約6200万の年収があった。17th後半になると、領地は藩が一括して管理するようになったため、藩庫から年貢相当分の米を支給されることが多くなっていった。

 討ち入り後、四家に預けられた浪士たちの処分は、元禄16年になってもなかなか決まらなかった。幕閣内でも忠義を称える向きもあり、助命を嘆願する者もいたためである。老中阿部正武らは先例などを色々調べ評定所へ諮問した。元禄15年(1702)12月23日、室鳩巣らの助命は、荻生徂徠らの処罰派の意見を背景に、老中らから諮問をうけた大目付、勘定、寺社、町奉行らからなる14名の評議では、浪士たちの行動は真実の忠義であり、禁じられている徒党には当たらないとして、浪士たちに好意的で、彼らを庇おうとする意見が圧倒的であった。反面、吉良家、上杉家に対しては非常に厳しい内容であった。(評定所一座存寄書)14名一同の見解は「この度はお預けのまま差し置かれ、後年(日ではない)に至って、落着を仰せつけられるべきかと存じます」であった。要するに前回内匠頭の切腹の裁定が、余りにも早急で裏付けのないものであったため、今回はじっくりと時間をかけて取り組むべきだと老中に進言している。評定所とは幕府の最重要事項や、司法問題を審議する最高裁判機関である。刃傷事件の裁決を気にしている吉保も評議のことが気になり、家臣の儒者である志村三左衛門と荻生惣右衛門(徂徠)に、評定所の動向について訊ねた。それに対する2人の意見は「忠孝を心掛けてした者を盗賊と同じ取り扱いにするのは、これから忠孝を励む者もいなくなり、幕藩体制が維持できなくなるとしながらも、世間の風評に媚びて浪士たちを無罪とすることは、法治国家である日本国が維持できないことになる。従って赤穂浪士たちを切腹とすることが、彼らの宿意もたち、いかばかりの世間の示しともなるでしょう」と言上した。吉保はこの意見を綱吉に伺った。上野寛永寺の管主にも意見を聞いていた綱吉も、この意見は妥当性があるとし満足した。元禄16年 2月4日「徒党を致し吉良家へ押し込み、飛び道具などを持参、上野介を討ち取る候始末、公儀を恐れず候段、重々不届候。これにより切腹申し付くるもの也」との裁断であった。罪科のポイントは「徒党」と「飛び道具」であった。これらが幕府御政道に逆らうものと断定された。法治国家の体面を維持しながら、武士の体面、打首ではなく切腹とした。世情の感情をくみ取った処分であった。これにより赤穂浪士46士は切腹、子弟たち19人は遠島と決まった。しかし、今回の2人の裁断は、老中や評定所の意見に納得出来ずにいた吉保が、徂徠を使って浪士たちの面子を立てさたエピソードとなっているが、刃傷事件の裁決でミソをつけた綱吉と吉保の2人が、汚名挽回のために仕組んだシナリオであったようにも見て取れる。

 浪士たちは切腹に際し、それぞれ辞世の歌や句を詠んだ。内蔵助「あら楽し 思いははるる身は捨つる 浮世の月にかぎる雲なし」といかにも粋人内蔵助らしい歌を詠んでいるが、泉岳寺の「白明語録」には、大高源吾の俳句、竹林唯七の漢詩などが書き留められているが、内蔵助の和歌はのっていないため、後世の偽作ではないかという説もある。吉田忠左衛門「君がため 思いぞつもる白雪を ちらすは今朝のみね乃松風」。小野寺十内「まよはしな 子とともに行く後の世は 心の闇もはるの世の月」。堀部安兵衛「忠孝に 命をたつは武士の道 やた心の名を残してん」。間喜兵衛「草枕 むすぶ仮寝の夢覚めて 常世にかえる春のあけぼの」。また、内匠頭の切腹時に遺言を託された磯貝十郎左衛門は、許嫁おみのに琴の爪を遺品として送ったとされる。 

 一方、吉良家を継いだ上野介の孫、この時17歳であった義周に対して「其方 仕方不届きに付、領地被召、信州高遠藩諏訪家にお預けとする」とした。また、大目付仙石伯耆守もこれを受けて「上野介は去々年口論の時に、抵抗もせずに傷をおって退去したことは、これは内匠頭に対し卑怯の至りである。またこの度、家来(浪士)たちが押し寄せたるときも未練の振る舞いであったと聞いている。親の恥辱は子として免れることはできない」と裁断している。つまり、上野介自身がが討ち入りを許したことは勿論、そこで打ち取られたことは「未練=未熟」であるとし親の恥辱をもって、また、浅野家家来共上野介討ち候節義周仕方不届につき、義周に裁断を下した。高遠へ遠流された義周は心労がたたり、本来の虚弱体質も加わり、宝永3年(1707)1月19日21歳で他界した。ここにも刃傷事件の犠牲者がいた。    

 



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