6 凱旋コース
内蔵助は「堂々と吉良の屋敷に討入り、合戦して吉良の首を取り、天下にその事を知らしめる。上杉の武名を地に落とし、柳沢出羽の面目を叩き潰す。そこではじめて報復はなる」とした。刃傷事件は謎のまま一方的な公儀裁断が下された。この報復が討入りであった。見事本懐を遂げた浪士一同が、浅野家菩提寺泉岳寺を目指して、吉良邸を引き上げ始めたのは、朝が白み始めた辰の刻(am6:00頃)前であった。内蔵助が当初計画したのは、吉良邸の西側にある回向院で、全員が傷の手当をし体制を整えることであった。寺の西は隅田川に架かる両国橋、南は堅川から御船蔵と続く。寅の一点(am4:00)大高源吾と間十次郎が表門に梯子をかけ、1番乗りをしてから半刻≒1時間、念願の吉良の討ち取りに成功した。浪士側の負傷者は2人、吉良邸には100人程が詰めていたが、長屋の戸が鎹で止めらた為、戦いに加われたのは約40人、うち死者は上野介を含め16名、負傷者23人、逃亡者が12人であった。
「暮六つから明六つ迄 檀家と亡者以外は出入り禁止」という寺法を盾にとって、回向院側は再度の申し入れも断ってきた。回向院は明暦の大火で亡くなった人びとを祀るために、建立された浄土宗の寺院である。当時は両国橋が現在地より、約150m程下流に架けられていた為、回向院の西門が橋と直結していた。寺法を盾に仏の道を忘れ、体制側の思惑ばかりを考慮して、浪士たちの待機を断った。この回向院側の対応に、それを知った江戸っ子たちは怒りに怒りを覚えた。寺側も時間がたち幕府側の考えを知るにつけ、自分たちの対応の誤りに気づいた。また、あの事件に少しでも絡んでいたらこの寺も縁の寺として、人びとに膾炙されたことであろうと後悔した。浪士一同はやむなく両国橋広小路東詰に待機して、上杉家の追手を待つことになった。しかし吉良家は息子綱憲が入った上杉家には受けが悪かった。上杉家としては当主綱憲を除いて、ここで意地と面子をはって家臣を繰り出し浪士たちと衝突すれば、浅野家同様、藩は取り潰し家臣たちが路頭に迷う事は、火を見るよりも明らかであった。赤穂浪士の二の舞いになるつもりはさらさらなかった。それでなくても関ヶ原以降、会津120万石を徐封された上、吉良家という金食い虫を抱えていた。広小路東詰で待機していた浪士たちは来る様子もないので、両国橋を渡らず隅田川左岸一つ目通りを南下した。東詰には現在、大高源吾の「日の恩や 忽ち砕く 厚氷」の句碑が建つ。
何故渡らなかったのであろうか。当日は月例の総登城日、諸大名との接触を避けるため、また、現在の靖国通りを直進すれば通り町筋と交差、江戸城に益々近くなる。さすがの内蔵助も無用なリスクを避けた。また、左岸コースの方が旧鉄砲洲上屋敷に近かった。小名木川に架かる萬年橋は、隅田川へ出る第一橋梁である。この橋の北詰に現在でも乳熊屋味噌店があり、このビル前に「赤穂浪士休息の地」の碑が建つ。ここの主人と大高源吾は同じ師匠をもつ俳句仲間であった。寝不足と冷え切った体に、甘酒を振る舞われた浪士たちには、先ほどの回向院の対応に比べ、正に仏の慈悲にあったような思いがした。この北詰の近くに同じ元禄年間(1688~1703)芭蕉が庵を結んでいた。ここからの清洲橋の眺めは、ライン川に架かるケルンの橋を想わせる。
京都留守居役を勤めた小野寺十内は、永代橋を渡り霊巖島から鉄砲洲上屋敷に向いながら考えていた。江戸留守居役であった堀部弥兵衛金丸殿の覚書にも「上野介は殿中において我が亡き殿へ、諸人の前で武士道がたたないような悪口雑言をあびせた。悪口は相手を殺害するのも同然の御禁制と承っておる」と記しているが、何故高家を勤め礼儀作法を司る吉良が、ここまでパワハラを繰り返したのか?係累を嵩にきた人間の仕業であろうか。しかし、では華麗なる一族は皆そうなのか。私が接してきた朝廷内の公家たちはそうでは無かった。要はそれを仕掛ける人間、その者の資質、体質にあるのではないか。権威にへつらう人間は、その分自分が下風とみる人びとを軽視する。権威に媚びれば媚びる程、それによって生じたストレスを、解消するといつた悪癖が身についてくる。浅野家良識派を代表する十内は、上野介はその悪癖を自己管理出来なかった、度量の小さな武士まがいの人間であったと断定した。そうであったならばわが殿もそう合わせれば良かったものを、亡き殿の潔癖性が悔やまれた。
赤穂浪士浪士47士はそれぞれの想いを噛みしめながら、隅田川4番目の橋「永代橋」を渡り左折、現在の鍛冶橋通りを進み、髙橋を渡り旧鉄砲洲上屋敷に向った。その頃の永代橋は日本橋川の左岸に位置、下りの千石船の帆柱を考慮して背の高いアーチ型をした木橋であった。お天気の良い日には、北は筑波山、東は房総の海から相模湾、南から西へ目を向けると丹沢山から霊峰富士が見渡せたと「江戸名所図会」は記している。軽子橋を渡り本願寺南東側、旧鉄砲洲浅野家上屋敷跡には、現在、聖路加看護大学の校舎と寮が建つ。門前で討ち入りの報告をした内蔵助は、47番目の浪士寺坂吉右衛門を門の陰に呼んだ。「吉右衛門すまぬがお主ここから退去して、今日の事柄を国元の家族たちに知らせてくれ」泉岳寺を目指していた吉右衛門は勿論反論した「何故私めが」内蔵助は「いや邸内の連絡掛りを受け持っていたお主だからこそ、今日の真実を1番良く承知している。我々は死んでゆく。真実は権力者によって都合よく変えられてゆく。その真実をありのままに伝えるのは、吉右衛門お前しかいない」「人は生まれやがて死ぬ。生きる日々は甲斐ある生を送れ。死する時は生き甲斐を尽くして死ね。それが侍の道、侍の志である」と鋭く説いた。また、「相手は士分の妻女であれ、この期に及んでは斟酌無用、わしに見習って上手くやれ」と内蔵助らしい助言も加えた。吉右衛門はこの場から離脱、関所を抜け播州赤穂へ戻り、各家族たちに報告を済ませ、家族たちの生計の相談にものった。のち江戸へ戻り内蔵助の最後の密命に基づき、側用人柳沢吉保の面目を潰すため幕府に出頭、世論の指示を受けて無罪放免を勝ち取った。その後は麻布曹溪寺で寺男をして同士たちの供養に勤めた。延享4年(1714)行年83歳天命を全うした。泉岳寺に供養塔が建つ。
汐留橋を渡り同役であった伊達家から馳走を有難く受け、金杉橋を西に進むと亡き殿が即日切腹命じられた、田村右京太夫の上屋敷が大名屋敷が集る愛宕山下の一角にある。ここは日比谷の入り江を埋め立てた大名小路に対し、第二の大名小路と呼ばれていた。ここに構える大目付仙石伯耆守久尚の屋敷へ、吉田忠左衛門と冨森助右衛門の二人は、堀部安兵衛の作成した討ち入り報告書「口上書」を言上、自訴した。報告浪士参加人数は吉右衛門を抜いた46人である事は言うまでもない。この報告を受けた久尚は、すぐさま月番老中稲葉丹後守にその旨を奏上、二人は共に登城した。一方、赤穂浪士たち44人は巳の上刻(am9:00頃)浅野家菩提寺である泉岳寺に到着、内匠頭長矩の墓に上野介の首級を添え討ち入りを涙混じりに報告した。首級は盗難を避けるために、念のため両国橋から金杉橋まで舟で運ばれ、先に泉岳寺に届けらていた。後程泉岳寺側から吉良家へ返還されている。現在でもその請取状が残されているという。泉岳寺住職の「飲食は御法度であるが、今朝の方々は格別」との厚意で酒や粥が振る舞われた。英気を取り戻して来るべき上杉勢の報復に待機した。泉岳寺=芝青松寺を入り浅野家の墓地へ向かう入口の門は、鉄砲洲上屋敷の裏門であった物を、明治になり移築したものである。因みにこの寺は今川義元の孫、宗関和尚が開基。曹洞宗江戸三箇寺の一員で、慶長年間(1596~1614)外桜田に創建、寛永年間(1624~43)の大火で高輪に移築、本尊は釈迦如来、脇仏は文殊、普賢のお二人である。
幕府側もこの報復行動を危険視、泉岳寺に待機していた赤穂浪士たちを、戌の中刻には(pm8:00頃)大目付仙石伯耆守久尚の屋敷内に移動させた。戌の下刻(pm9:00頃)から大石以下討入りに加わった浪士たちの取り調べが始まった。一党は連名簿順に点呼され、姓名、浅野家での役目柄、年齢などが確認されていった。47番目になって寺坂吉右衛門の返事がなかい。一同は「あいつははぐれたのか」「そういえば見かけなかった」「逐電したのか」などとざわついた。このとき内蔵助は仙石伯耆守ににじり寄り「寺坂吉右衛門めは軽輩者故うろたえてのこの仕儀、是非なき次第にございます。重ねての御詮議無用に願い上げまする」久尚ジッと内蔵助の目を見返し「数にも入らぬ足軽がそれまでようもはたらき、また働かせたものよ、それで充分 重ねてその名は言うまい」「寺坂という者の名を消せ、赤穂討入りの面々は46名である。そう記録せよ」と部下に命令した。一連の詮議が終了、亥の上刻から下刻(pm9:00~11:00)にかけ、浪士たちは幕命により、四家に分散させられお預けとなった。あとは断罪を待つのみである。この時が討ち入りに参加した赤穂浪士たちにとって、各々が今生の別れとなった。肥後熊本藩細川家下屋敷へは内蔵助以下17名お預け。細川家の世話役堀内伝右衛門は、家老から浪士たちと余り接触をしないようにと云われていたが、後世に残るであろう浪士たちの話を逃すことは勿体ないと考え、話を聞いて回ったという。この収録が「堀内伝右衛門覚書」として、後世に残され貴重な資料となっている。現在の高松宮邸辺りである。伊予松山松平家には大石主税以下10名、この地は現イタリア大使館である。長門長府藩毛利家には岡嶋重衛門など10人、現六本木ヒルズ。三河岡崎藩水野家には間十次郎など9名、現慶応中通リ三田駅の近くである。なお討ち入りのあった日以降、江戸市中ではこの事件でもちきりとなった。各大名家でも彼らを罪人というより、むしろ英雄として厚遇した。細川家では毎日二汁五菜の食事が出され、昼には菓子、夕食時には酒も付けられた。余りの豪華さに内蔵助は「浪人暮しが長く、贅沢な物には食べつけてないため、玄米や粗末な食事にして欲しい」と頼み込む程であったという。
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