5 いざ討ち入り
元禄14年(1701)12月13日、上野介の隠居が認められ、吉良家は上杉綱憲の次男、上野介の孫義周が家督を継ぐことになった。この処遇により上野介には、何の沙汰も下されないことが確実になった。またこれにより、上野介が上杉家米沢藩に引き取られる可能性も出てきた。そうなっては討ち入りは全く不可能なことになる。内匠頭長矩の弟大学長広の去就を待っていては、上野介義央は米沢城内の人間となってしまう。この知らせを聞いて討ち入り強硬派は、即時決行を内蔵助に訴えた。これを受け内蔵助は元禄15年2月15日、浪士たちを招集した。「山科会議」である。この席で内蔵助はこの段階では、大学の処分決定が最優先事項だとし、しばらく様子をみようと主張した。昨年12月の上野介の引退より今回の山科会議までわずか2ヶ月の間にも、江戸強硬派であった高田郡兵衛が脱盟、また、早駕籠で殿の大事を知らせた萱野三平が、両親と盟約との狭間で自害していった。時間と共に同盟者は漸減していった。
元禄15年7月18日、幕府は浅野大学長広に対し「閉門を赦免し、広島藩浅野綱長本家へお預け」の処分を下した。実質的な改易処分である。赤穂浅野家の「再興は絶望」を意味した。7月28日、内蔵助は即、浪士面々に連絡をいれ、京都円山安養寺で会合を開いた。これが世に云う「円山会議」である。浅野家再興の道が完全に閉ざされた今、上野介を討ち取る以外亡き殿の恨みを晴らす道はないとし、浪士たちは10月を期して江戸へ下り、本所松坂町の吉良邸に討ち入る事を決定した。あれこれと我々がお家再興を目指して嘆願してきたが、幕府はこれらを受け入れることは無かった。かくなるうえは世の正義を正すため亡き殿の恨みを果たすため、我々は上野介を討たねばならない。この論理を元禄に生きる人びとに知らしめるために、我々は長い歳月をかけ金子を費やし、労力をつぎ込んで、このプロジェクトに挑んできた。それなくしては武士の正義は成り立たないと、内蔵助は考えた。いざ討ち入りである。討ち入りを目指す浪士たちが、各所から江戸に集まってきた。潜伏先は吉良邸のある本所を中心に、深川、日本橋、芝などであった。内蔵助は垣見五郎兵衛と替名を名乗り、日本橋石町3丁目にある小山屋弥兵衛裏店に、息子主税らと共に居を構えた。こうした状況のなか、浪士たちは討ち入りが近づくにつれ、家族たちに別れを惜しむ手紙を送った。それらの内容は「武士道を貫き、大義のために行動する」という想いが共通していた。郡目付であった神崎与五郎は、妻おかつに「侍の妻が嘆き悲しむことは良くない事だ。私もとてあなたが恋しいが、これは人たる者の義務である」と認め送っている。討ち入りは決まったが、浅野家再興の道は閉ざされ、幕府の浪士たちへの改めが厳しいなどの情報が流れると、奥野将監や進藤源四郎など最初から行動を共にして来た同士たちが離脱していった。そこで内蔵助はもう1度、浪士たちの意思を確認する必要に迫られた。大高源吾など2人を上方に派遣、神文(起請文)から切り取った血判を返して回らせた。「何故?」と聞かれれば「内蔵助は討ち入りを辞めた」と返答させた。そこで真剣に怒る浪士たちには真実を伝え、真の同士になって貰った。こうして残った仲間たちは120人から、半数以下の50人程になってしまった。
江戸では浅野家三代に仕え、物頭であった吉田忠左衛門は、同士たちと本所松坂町の吉良邸、米沢藩の桜田上屋敷、白金下屋敷の人の出入りを徹底的に見張り始めた。10月には東西134m南北63m敷地2550坪を要し、北面は旗本土屋主税の屋敷、東西面と南面は2階建ての長屋であり、部屋数が40ある吉良邸の屋敷図面の入手に成功した。討ち入り計画のマニュアル作りが開始され、吉良邸までのルート、吉良邸内での戦闘、引き上げルートを想定して、色々な意見が交わされ、現地調査にも余念がなかった。また、内蔵助は討ち入りを確実なものとするため、弓、槍、竹梯子など押込み道具を一式購入、浪士たちの身体を敵から護る、鎖で体を覆う「着込み」や、吉良邸の長屋の戸を打ち付けるための「鎹」などの準備にも怠りなかった。その費用6両3分2朱≒132万円。内蔵助は討ち入りが近くと、これまでの討ち入り準備に要した経費を括り、その仔細を記した帳簿や領収書を、討ち入り日の晩に着くように、瑤泉院の用人落合与左衛門に送った。早目に送って討ち入りの計画が、事前に漏れないようにするための内蔵助の配慮である。内蔵助が今回のプロジェクトに関して預かった金額は、藩財政の余金と瑤泉院が三次浅野家から輿入れした際に持参した化粧料を合わせた690両2朱≒8300万である。これが松の廊下から討ち入りまでの1年9ヶ月の浪士たちの軍資金となった。これに対し最終的な支出は697両1分2朱、7両1分が不足した。この不足分は内蔵助が身銭を切った。赤穂江戸間の交通費、江戸における浪士たちの生活費、武具調達費などの総合計費であった。山科での敵を欺くための遊興費は内蔵助の自費である。どこぞの政治家のように公費では遊ばない。これは税金を使う立場にいる人間の最低条件である。綱吉治世下、悪鋳による元禄インフレ経済の下で、予想以上に出費がかさんだ。
こうした万全の用意をしていざ討ち入りをしても、上野介が不在であれば本懐は遂げられない。(HP俳句忠臣蔵を参照)茶の湯の宗匠山田宗偏に弟子入りしていた大高源吾は、12月5日に吉良邸で茶会が開かれるという情報を得た。この日が決行日となった。5日討ち入りを受けて、2日深川八幡宮前の茶屋に同士一同が集まり、討ち入り当日の16条からなる心得が細かく決められた。①決行日は本所林町5丁目堀部安兵衛、本所徳右衛門町1丁目杉野十平次、本所相生町2丁目前原伊助 それぞれの借宅に集合すること ②討ち入り時間は堀部弥兵衛の云う「寅の一点(am4:00)」とする。この時間は人間が1番緊張感がほどける時間帯である。しかし、5日は綱吉が側用人吉保の下屋敷六義園に出向くという情報がもたされ、この日の茶会は中止となった。この時期綱吉はやたらと六義園を訪れていた。この為六義園の入口辺りは家来たちの待機場所となり、さながら江戸城内のように混雑したという。この為この辺りが「殿中」と呼ばれるようになったという、まことしやかな話もある。(江戸物語<地之巻>第2章7を参照)こうして意気込んでいた浪士たちは、綱吉の遊興娯楽のためにまた同じ苦労をすることになる。12月14日昼頃、大石三平が吉良邸に出入りしていた歌人羽倉斎宮から「14日の夕方に吉良邸で茶会が催される」という情報を得た。また、大高源吾も山田宗偏から同様の情報を得た。ウラを取るべく内蔵助は吉良邸裏に店を構えていた、神崎与五郎と前原伊助に探らせた処、宗偏が吉良邸に入っていったことを目撃した。この情報は信頼できると確信した内蔵助は「14日深夜寅の一点 討ち入り決行」を同士たちに伝えた。この時点で吉良邸の探索などで功績のあった毛利子平太が脱盟、最終的に討ち入る同士は、47士となってしまった。
赤穂浪士47人は吉良上野介義央を討つべく、本所松阪町へ向かった。彼らは途中でとがめられてもいいように、全員火事装束で身を固めていた。一行は大石内蔵助を大将とする表門組23人、大石主税を大将とする裏門組24人の二手に分かれ吉良邸を囲んだ。表組は先ず梯子を掛けて屋敷内に降り内から門を開け、鉦を打って裏門組に合図、それを受けて裏門組は掛矢(大きな木槌)で門を壊し、それぞれ上野介の寝間を目指した。赤穂浪士最強のメンバーは5人、高田馬場で実戦経験のある堀部安兵衛、安兵衛は長太刀を使って裏門から突入した。不破数右衛門、勝田新左衛門、杉野十平次らは屋敷内で腕を振るえるようにと短い刀を使った。神崎与五郎は、得意な弓で活躍した。明け方近くじりじりとしながら探索していた処、台所裏の物置小屋で人の気配がした。安兵衛が出てきた侍たちを切り倒し、続いて出て来た白綸子を着た老人を竹林唯七が槍で突き、間十次郎がとどめをさした。古傷を検索した処、亡き殿が殿中でつけた傷と一致、念のため吉良家の者に首実検をさせた処、上野介であると立証、一同は本懐が遂げられたと感涙にむせんだ。記録による12月15日とあるのは、当時明六つまでをその日と勘定していたことによる。
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