4 苦難の討ち入りまで

 元禄時代の権力や財力によって奢り昂る風潮は、将軍綱吉自らが生みだしたものであり、上にへつらう上野介などは、その端くれでしかないと内蔵助は考えていた。たまたま足利の世において、儀式作法を身につけ、それが元禄の世になって高家と呼ばれ、増長しているだけの者ではないか。戦国の世であれば、何の取り柄もないただの老人ではないか。内蔵助は亡き殿長矩にそう教え込んでいた。この饗応役が終わるまでは、吉良の少々の我儘を聞き入れ受け流し、無事に終わるまでは堪忍することだと何度も伝えていた。わが殿が吉良に斬りつけた際「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだという。これを素直に解釈すると、これまでの間、上野介は我が亡き殿に対して数々のパワハラを仕掛けてきた。これらは武士に対する侮辱である。それらの仕打ちに対して反省し責任を取ってもらうために、自分と共に死んでもらうために殿は斬りつけたのである。この方程式に基づけば双方に責任がある喧嘩である。喧嘩であるならば、武士の常道「喧嘩両成敗」が、天下大法の原理である。この大法の原理が覆され殿が切腹、吉良がお構いなしでは、明らかに片手落ちではないか。内蔵助に限らず、浅野家の武士たちは、いや世論の空気全体的がそう考えていた。

 元禄14年(1701)3月14日、播州赤穂浅野家改易に伴ない、幕府は赤穂城、江戸屋敷などの引き払いを命じた。3月17日、先ず江戸屋敷が収公された。鉄砲洲上屋敷は当初、出羽新庄藩が入る予定であったが、22日変更され若狭小浜藩が、赤坂中屋敷には肥後人吉藩が、本所下屋敷には伊予大洲藩が入った。これらの屋敷に詰めていた家臣たちは、それぞれ町屋を借りて移転していった。4月18日、次いで赤穂城が引き渡される事になった。幕府は引き渡しの際、騒乱が発生すれば、宗家及びその一門に影響が及ぶと警告してきた。そういわれるまでもなく、内蔵助は亡き殿の弟浅野大学が、この引き渡しを我々が拒んだ事で処罰されては、浅野家再興はなくなると考え、籠城を主張する強硬派を説得した。当日の浅野家側担当は、内蔵助と奥野将監、この日、内蔵助は三度に渡り城を検視にきた上使二人に、弟大学が再奉公出来るように嘆願した。三度目になり流石に上使も根負けして、江戸に戻り次第老中に言上すると約束してくれた。

 4月19日、赤穂藩は藩の年間予算に匹敵する銀900貫目(上方は銀使い)≒金1万5千両、現在の金額にすると、1両≒12万円と想定すると約18億円の「藩札」を発行していた。藩札とは正貨の不足を補うために、各藩の責任でその領内のみで使用が有効な紙幣で、幕府の正貨との兌換が不可であるというのが原則である。その藩が改易されれば、その藩札は勿論ただの紙切れとなる。この日早くも浅野家断絶を耳にした商人たちが、札座(藩札と現銀を交換する役所)に押しかけてきた。20日、内蔵助は勘定方と相談の上、額面の六分(60%)で両替を開始、回収された藩札は城内で焼却されたと云われている。後になって討ち入り資金となる軍資金は、藩札を兌換した後の赤穂家の残余財産と、阿久里(瑤成院)の嫁入り持参金を貸し付けていた金額は5470両であったが、実際に回収できたのは、残余財産と合わせて691でしかなかった。内蔵助はこれを預かり、今後の浪士たちの生活費、お家再興費用、討ち入り準備金としてあてがっていった。5月になると内蔵助は、大学の人前になる(武士として面目が立つ)形でのお家再興を願っていた。しかし、それは綱吉自身が下した自己の裁断を、自ら誤りであったと認めることになる。この覆しは綱吉の性格からして無理であった。6月4日、内蔵助は諦めきれずに、浅野家の祈願寺であった遠林寺の僧・祐海に、公金691両のうち44両1分を手渡し、護寺院隆光が幕府に再興運動を働きかけてくれるよう依頼した。しかし、この運動は対面まではこぎつけたが、体よくあしらわれ失敗した。隆光は綱吉やその母桂昌院に取り入って、あの悪名高い「生類憐みの令」を発布させた張本人である。江戸の何処を歩いても嫌わない人間はいなかった。その隆光に対してさえ内蔵助は利用しようとした。お家再興のためベストを尽くす。このためには内蔵助は意地も面子も捨てていた。見方を変えれば合理的考えの持ち主であった。

 赤穂城の受け渡しがあり、内蔵助が城検視役に伝えた言葉が、老中に言上されてから間もなく、8月19日になって上野介は呉服橋御門内(千代田区八重洲2丁目)の屋敷から、隅田川を越えたいわゆる川向うの本所松坂町(墨田区両国3丁目)へ、屋敷替えを申し渡された。松坂町は回向院の東側に位置、元は御竹蔵であった。元禄年間(1688~1703)頃から武家地となり始め、近隣には相生町、松井町、緑町など植物に関連する町の名が多かった。1丁目と回向院の間は郡代屋敷の牢屋があり、北側には土屋佐渡守の屋敷があった。そもそも松坂町という番地は、内蔵助らが討ち入り後に切腹した元禄16年(1703)大火事が発生、その後始めて町地を開いて松坂町と名付けられたもので、それ以前は「本所無縁寺裏通り吉良殿屋敷」とか「北本所一二の橋通り」と呼ばれていた。こういった状況で当時の本所は閑散とした江戸の郊外であり、討ち入りを果たすには格好の地域であったといえた。口さがない江戸雀たちは、幕府が赤穂浪士たちの仇討ちを容認したようなものだと噂しあった。吉良家の屋敷替えをうけ、堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫など江戸強硬派は、内蔵助に討ち入りを促したが、内蔵助は大学長広の処遇が決まらない今は、時期尚早だと考え彼らを宥めるべく、原惣右衛門、大高源吾、進藤源四郎などを江戸に送ったが、逆に彼らに論破され討ち入りに意気投合してしまう始末であった。それ程浅野家の浪士たちは、亡き殿の恨みを晴らすことに情熱を傾けていた。内蔵助も大多数を占めるようになってきた、討ち入り派の意見に抗う事は出来ず、来年(元禄15年)3月、亡き殿の一周忌までには結論を出すと約束した。

 これに先立つ元禄14年5月、内蔵助は京都郊外の山科郷西野村に家や田圃を購入、家族と共に生活を始めていた。翌15年4月になると、内蔵助は15歳になる嫡男主税を手元に残し、妻理久と幼い子供たちを、義父但馬藩家老石束源右衛門の元へ送り返した。これが内蔵助夫婦の生きて最後の別れとなった。追って10月には妻子に罪が及ばないように配慮し、理久に離縁状を送った。他の藩士たちも江戸や大坂、赤穂の村々に移り住み、来たるべき日に備えて雌伏していた。いよいよ討ち入り体勢に、浅野家も吉良家も入っていった。


 

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