3 浅野家 vs 吉良家
清和源氏の流れをくむ浅野家は、長勝の時代に信長に仕え弓役となり、その1番目の娘が寧々と呼ばれ木下藤吉郎に嫁いだ。2番目の娘ややは婿養子を迎え、この婿が後の浅野長政となり、関ケ原の戦いでは嫡男幸長と共に徳川方についた。元和3年(1617)福島正則が改易となり、紀伊和歌山にいた浅野長晟が安芸広島へ42万6千石で入封、浅野宗家の領国支配は明治維新まで続く。幕末、薩長同盟が成立すると、これに加わり倒幕に踏み切った。浅野の分家・三次浅野家は長晟の庶長子長春が藩祖、阿久里=瑤泉院は長春の2番目の娘に当たる。もうひとつの分家に広島新田藩青山浅野家がある。また、本家が知行を与えた訳ではない家に「別家」という家がある。これに当たるのが事件の発端を作った赤穂浅野家である。赤穂浅野家は長政の三男長和が、野州真岡から常陸国真壁、笠間へと移封され、正保2年(1645)長直の代になって、播磨国播州赤穂5万3千石で入封する。それから元禄元年(1688)まで、長直は新田の開拓や塩田の改良、拡張工事を推し進め、それらが幕府からも認められていた。近代大正になって、日本国政府からも従三位が贈られている。長直は人と治世の整った領国を残そうとしていた。長矩の父長友は藩主の座わずか3年で病死、為に播州赤穂浅野家は長直によって基盤が造られた事になる。長矩は3代目となる。長矩の正室阿久里は9歳の時、父長春が33歳で死亡してしまったため、築地鉄砲洲の赤穂家上屋敷に引き取られた。天和3年(1683)10歳で長矩と婚姻、夫はその時17歳であった。2人の間に子がいなかったため、長矩の弟大学を養子としていた。刃傷事件が起きた元禄14年、阿久里は28歳、夫は35歳であった。わずか18年間の結婚生活であった。
一方吉良家は、室町幕府足利将軍家の連枝で、足利将軍家が絶えれば吉良家が継ぎ、吉良家が絶えれば今川家が継ぐと云われていた名家であった。義氏の子長氏が吉良荘に移って「東条・西条吉良」を名乗った。義央は東条の流れである。吉良荘は三河国幡豆郡吉良荘、現在の愛知県西尾市吉良町にあたる。室町幕府時代は渋川氏、石橋家と共に御三家と呼ばれ名門であったが、応仁の乱以後没落、今川、織田、徳川と仕えた。高家となるのは元和元年(1615)秀忠の時代、義央の曽祖父義定が3千2百石を与えられ、以降、その役職は世襲された。高家とは足利以来の武田氏畠山氏など、名家二十六家を指し、高家の「高」は足利尊氏(高氏)の「高」であり、足利将軍の血筋を引いた家のことをそう呼んでいた。家康が吉良などを高家に取り立てたのは、彼らが故事や儀式、儀礼に精通していたためだとされている。こうして幕府の儀礼を司る老中直属の大名となり、官位は大名に準じた。上野介義央が高家に就任したのは19歳の時で、将軍名代として朝廷、伊勢神宮、日光東照宮に代参、朝廷からの勅使院使を饗応した。元禄4年や10年に先輩たちが没すると、吉良は高家筆頭となる。それ以降、今まで4千2百石の旗本に甘んじ、万石大名たちに遠慮がちであった吉良は、水を得た魚のように、地位と閨閥を笠にきて尊大な言動が多くなっていき、蘇峰のいう「煮ても焼いても食えぬ奴」になるのは時間の問題であった。また、足利家が上杉家と縁続きの為、吉良家も上杉家と縁が深かった。上杉景勝の子定勝の娘・三姫(富子)が義央と婚姻、夫婦の間に生まれた綱憲は、世継がいなかった上杉家の婿養子となり藩主の座に就く。更にその子義周(義央の孫)が吉良家に養子に入って家を継ぐという、吉良家と上杉家は二重、三重の繋がりをもっていた。この閨閥の繋がりによって、上杉家は4200石の身上にも拘わらず派手好みの義央を支えるために、吉良家に対して毎年6000石を補助、また、刃傷事件後も負の関係になることが多くなっていった。
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