第7章「花の吉原・光と影」1元吉原誕生
江戸幕府の役人でもあった太田蜀山人は、人の生活において「楽しみは後ろに柱 前に酒 左右に女 懐に金」だと言う。江戸の男たちの愉しみを表した言葉であろうか。遊女の歴史は、古代エジプト、ギリシャ時代の神殿の巫女から始まるとされる。我が国でも神に仕える巫女たちからその歴史が始まったとされる。遊女たちが書物文献に始めて登場するのは、万葉集巻六「遊行婦(うかれめ,あそびめ)」である。児島と呼ばれた遊行婦が、都へ帰る大伴旅人と「大和路は 雲隠れたりしかれども 我が振る袖を 無礼(なめ)しとぞおもふな」と詠んで、別れを惜しんだ。古来、人の集まる新開地には、自然発生的に傀儡師や白拍子などと呼ばれた、遊行婦たちが集まった。時代は下り、秀吉と家康の時代になって、特定の地域を決め、廓、曲輪などが創られ、幕府公認性としたのが遊郭の始まりとされる。天正18年(1590)八朔、江戸入府、慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」に勝利した家康は、同8年、江戸に幕府を開いた。臣従した諸国の大名たちにその家来、京、大坂などから呼び寄せた商人たち、江戸の街や城の建設のために労働者たちが、江戸へ集まってきた。そのころの江戸の町は、まだ田舎の寒村であり、治安もまだ安心出なかったため、集まってきたのはほとんど男たちばかりであった。江戸はたちまちのうちに、数値的には女がレアな男社会になっていった。江戸初期では男が3人に対し女が1人、中期になってもまだ男3に女が2、後期になってやっと、江戸の男女比が均等化した。
家康が入府した江戸の土地は、道灌の暗黒の100年を経ても葦原続く湿地帯であった。現在の新橋、汐留辺りから常盤橋辺りまで「日比谷入江」という遠浅の海岸が入り込み、その西は江戸城汐見坂、その東は現在のJRの各線の場所であった。入江東側には更に「江戸前島」と呼ばれた「日本橋波蝕台地」が広がっていた。江戸開府当初、江戸城周辺の各所に全国からきた、遊女たちが商いを始めていた。江戸土着の遊女たちは、大橋と呼ばれていた常盤橋内の「道三河岸」に20余軒の見世を開いていた。その後、大橋という名称はいかにも殺風景であるという意見があり、古来の佳名をとって「常盤橋」とし、また、道三河岸もここに松に混じって2本の柳が生えていたことから①「柳町」と粋な名前が付けられた。神田橋門外の➁「鎌倉河岸」には、駿府弥勒町から移ってきた遊女たちが10数軒見世を開き、③「麹町8丁目」には京都六条で商売をしていた女たちが10数軒開いて商いをしていた。他に、④京撞木町や大坂の瓢箪町、奈良木辻町の遊女たちも、そこかしこに赤い湯文字(関西では蹴出という)を旗印にして2~3軒見世を構えていた。その頃の遊女たちは、その器量、力量によって太夫、格子、端女郎などと呼ばれていた。
慶長10年(1605)江戸城改築のため、柳町で営業していた遊女屋が、元誓源寺前(日本橋銀町)へ移転を命じられた。その柳町で店を経営していたのが、小田原北条氏の家来、庄司甚右衛門である。この男同業の男たちと相談して、柳町だけでなく他にも江戸に散在している遊女屋を、京の島原のようにひとつにまとめた方が、治安その他の観点から得策であると提案した。慶長17年(1612)同業者たちの意見を集約した甚右衛門は、公儀に対し陳情、しばらくした元和3年(1617)甚右衛門は幕府評定所に呼び出された。最初の問い合わせから5年が経過していたが、再度検討され正式に認可された。その要件は、①定めた場所以外での商売、出張を禁止して、集娼制度を採用する ②客の宿泊を一泊限りとし、長逗留を禁止する ③紺屋染め以外の衣類の着用を禁止 ④廓の規模、建物を制限し、町役の義務を負うこと ⑤不審な客を訴えることなどであった。これらを踏まえて、日本橋葺屋町の東側に、2町四方(1町≒109m)≒14400坪≒5万㎡の、葭や葦だ生えていた土地が払い下げられ、翌4年、11月営業開始と定められた。ここを京の「島原」大坂の「新町」長崎の「丸山」と並んで、四大公娼、江戸の「元吉原」と呼ぶ。葭、葭が「吉」に転訛したのは、アシは悪(あ)しにつながるとし、縁起を担いだためとも、彼の出身地が駿府の𠮷原であったためともされる。元吉原は、四方を黒板塀とお歯黒どぶで囲い、北の富沢町と長谷川町(禰宜町)の間、「大門」を唯一の出入口とした。遊女たちの逃亡を防ぐためである。夜明けに開門、夜四ッ(午後10時)に閉門、その門から廓内のメイン通りを「大門通り=中通り」と呼んだ。名所図会によると「昔此地に𠮷原町ありし頃の 大門の通りなりしによりかく名づく。今ハ銅物(かなもの)屋、馬具師多く住り」とあり、其角は「鐘ひとつ 売れぬ日はなし 江戸の春」と江戸の繁盛ぶりを詠んでいる。廓はこの通りを挟んで5丁町で形成され、後に揚屋町が加わって6丁町となる。①「柳町」の見世は大門を入って左側「江戸町1丁目」へ、➁鎌倉河岸の見世は「江戸町2丁目」に、③麹町にあった遊女屋は「京町1丁目」、④大坂、奈良からきた遊女たちは、「京町2丁目」に移転してきた。⑤「角町」には京橋角町の遊女屋10軒ばかりが、7~8年ばかり遅れて移転してきている。遊女たちの総数は約1000人ほどになった。人形町の町は、こうして西に「芝居町二町」、その東側に「元吉原五町」という二大悪所が形成された。江戸っ子たちは「化けるのが二町 化かすのが五町」と揶揄した。
江戸町1丁目に西田屋という見世を開いた庄司甚右衛門は、朝になるとこの門を抜け出して散歩に出掛けた。大門から左へ進むと大きな通リをまたいて、芝居小屋の北側の新道に出る。この道の先が東堀留川である。この川は旧石神井川がまだ王子辺りから隅田川に直進していなかっいた頃、王子から右に折れ南下、不忍池、お玉が池を経由、現在の小網町、小舟町から江戸の海(東京湾)に流れ込んでいた暴れ川である。これを堀留、小伝馬町辺りで堰き止め、掘割としたのが東堀留川(堀江町入り堀)、西堀留川(伊勢町堀)である。湿地帯を埋め残して水路とし、掘割としたものとは真逆の発想となる。芝居町の裏を流れていた東堀留川に沿って川下に歩くと、現在の金座通リにぶつかる。ここに掛かっていたのが「親父橋」である。この橋の袂に江戸っ子たがたむろし、甚右衛門が現れると「あっ親父が来た」と言い合ったことからこの名がついたという。また、この橋の名称は甚右衛門が架けたからだともいう。後の世になるが、この橋の袂には、鰻丼の元祖大野屋があり、芝居町からの注文が増えていった。この川は小網町で日本橋川に注いでいる。日本橋の若旦那が親の目を盗んで、この辺りの橋の上で「さあ、今日は芝居を観ようか、吉原に繰り出そうか」と贅沢な悩みをしたことから、この橋を「思案橋」と人は呼ぶようになった。若旦那の悩みも「明暦の大火」までであった。元吉原は浅草田圃に移転。「吉原が 引けて思案は いらぬ橋」
甚右衛門たちの思惑は見事に当たり、元吉原は繁栄を極めたが、いつの世も、何の商売もひとつのものが、そう長く続くものではない。寛永13年(1636)頃から、江戸市中に湯女風呂屋が流行始め、そこで働く湯女たちは、昼間は風呂屋で働き、日暮れると化粧をして客と酒宴を催し、共に夜を過ごした。正に元吉原に働く人たちにとって強力なライバルであった。湯女の一人に「勝山」と呼ばれたスーパーアイドルがいた。美人である上に頭脳も冴えた。その特異な出で立ちと行動は、江戸雀たちを虜にし、元吉原は日毎に淋しくなっていった。吉原は格式にこだわって、一つ一つの遊びに手間と時間と金がかかったが、湯女風呂は気軽に通えた。これも湯女風呂が繁盛した原因であった。寛永14年、元吉原からの要望により、湯女制限令、慶安元年(1648)に湯女禁止令を、更に同5年にも同様の法令を出したがその効果は余り見られなかった。また、寛永17年(1640)には元吉原の営業が昼のみとなったため、ダブルパンチとなった。こうした状況のもと、明暦2年(1656)10月、人形町葺屋町の東側にあった元吉原は、本所か浅草寺裏の浅草田圃に移転を命じられた。表向きの理由は、将軍様お膝元に大奥は別として、そのようなものが存在するのは風紀上如何なものか?という理由であったが、湯女問題との取組に匙を投げたというのが本音である。こうして、幕閣たちと遊郭の年寄たちが揉めている最中に、明暦3年(1657)正月18日、本郷丸山本妙寺から火の手が上がった。所謂「振袖火事(明暦の大火)」である。1回目の出火で伝馬町牢屋敷など下町を燃え尽し、2回目の出火で江戸城「寛永の天守閣」が燃え、3回目の出火で江戸の南西部が焼失した。この3回の火事で、江戸の町は22里8町四方、約2/3を焼失、10万7046人の犠牲者をだした。人類史上最悪の都市火災となった。江戸幕府は武断政治から文治政治へ切り替えを迫られた。人形町元吉原も炎上、今回は否も応もなかった。結果、年寄たちは陸続きの浅草田圃を選んだ。日本提の浅草千束村に、人形町の1倍半の敷地を貰い、夜営業の認可と移転料1万5千両を拝領。湯女風呂を閉鎖、約千人いた湯女たちを下級女郎として「新吉原」に送り込む事を条件に、新天地に移転していった。
古書は元吉原を「初め此辺は総て沼地にして、茅葦叢生せし所なりしが、慶長の頃(1596~1615)之を填築して市地とし、花街を開き葭原と称し、明暦大火後、之を今の新吉原の地移したる其址」と記している。元吉原を伝える唯一の史料「あづま物語」によると、遊女は約千人、揚屋36軒、遊女たちの独身寮兼事務所である妓楼は、125軒を数えたという。元和4年より明暦3年まで続いた元吉原が引けた後、廓は町屋となり、新泉町、高砂町、住吉町、難波町と佳名がつけられ繁盛していった。現在の人形町にはまだ、古い名残りの地名が残っている。
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