「花の吉原」光と影 2 新吉原への道

 明暦2年(1656)元吉原は、明暦大火後、本所か浅草寺裏かの移転命令を受けた。当時、隅田川に架かっていた橋は「千住大橋」のみ、両国橋は明暦大火以後である。廓の年寄たちは、まだ陸続きの方が今までの客を繋げるとして、移転料1万5千両を拝領して浅草田圃に移転した。明暦3年8月から、我が国で売春防止法が施行される昭和31年成立、33年の本格施行まで、約340年間続いた「新吉原」である。同年、6月15日、16日の両日、遊女たちは、化粧を凝らし衣装で着飾り、浜町河岸から屋形船を仕立てて大川を上り、駒形堂や浅草寺、山の宿の渡しなどからそれぞれの宿に分宿した。こうした物見高いのが大好きな江戸の雀たちは、一目このイベントを見ようと、浜町、蔵前、今戸辺りの大川端に集まった。今でいう紙吹雪舞う優勝パレードの如しであった。しかし、16日の期限となっても、震災復興の遅れのため廓の建設が間に合わず、とりあえず鳥越や山谷辺りの農家を借りての仮営業となった。

 日本橋辺りから新吉原への道は、陸路と水路がある。江戸からのお客たちは、移転の当初は馬で新吉原へ通った。①浅草御門から花川戸、馬道へ出て日本堤から大門のコース。このコースの馬賃は元禄末(1703)通常で200文、飾り付けした白馬に乗り、馬子の小諸節の唄を聞きながらでは348文、江戸初期1文≒¥20として約¥7000した。それでも馬子たちは、裸馬で帰るのは勿体ないと、廓に上がった客たちの勘定不足分を、一緒にその客についていって回収したのが、「付き馬」稼業の始まりだとされる。因みに、料理屋や料亭などで無銭飲食すると、現行の刑法246条第1項に該当する。これを「一項詐欺」という。更に廓などに登楼、宿泊し、遊女のサービスなど無形の利益を得た者は、第2項「財産上不法の利益」を得た者に該当する。 ➁御徒町から三筋へ出て、現在の国際通リを抜けて、山谷の田圃を横切り日本堤へ出るコース ③上野山下から入谷田圃を抜けて、三ノ輪から日本堤、大門へのコースなどがあった。浅草日本堤は天和6年(1620)荒川(現隅田川)の洪水から、下谷、浅草を護るために、待乳山(真土山、沖積土でない本来の土を意味)を切り崩し、浅草聖天町から三ノ輪まで造られた、高さ3~4丈≒9~12m、約1,5㌔の土手であり、吉原土手、土手八丁、八丁縄手とも呼ばれた。名所図会では、この日本堤を「聖天町より箕輪に至る凡そ十三町程の長堤なり」としている。また、吉野橋から小塚原に向かう墨堤も含めて二本堤と称していたが、特に山谷から新吉原への道を「日本堤」と称したとも、また、全国の大名たちが幕命によって、これを造ったので日本堤と呼ばれたともいう。対岸にも同じ様に「隅田堤」が築かれ、隅田川を挟んで逆八の字の形を形成、江戸の下町を隅田川の大水から守った。これにより、米河岸、塩河岸など下町の多くの河岸が立地し得たのである。「浅草は 意馬心猿の 道と町」という川柳がある。決意は馬の如くまっしぐら、心は猿のように踊っているという、吉原に通う江戸っ子たちの姿を的確に表現した句であろうか。この句を地名に引っ掛けて解釈すると、馬とは吉原に通う馬道、猿とは天保改革以後、芝居町となった猿楽町を指すとすれば、人形町思案橋のリメイク版となる。

「吉原に 生き(粋)のいいのは 猪牙でゆき」新吉原への水運である。大川へ流れ込む神田川の出口に柳橋の船宿がある。そこのおかみが愛嬌で、船べりをひと押しする。その白い手首が北へ向かう人間の恋情を誘う。「辰巳にも 北へもなびく 柳橋」。突き出すと緒牙舟(親不孝舟)は、「首尾の松」を左に過ぎると、駒形堂はすぐそこである。「君は今 駒形あたり ほととぎす」三浦屋の太夫、仙台高尾が間夫の来るのを待って詠んだ句である。浅草寺の甍に身を正し、右に三囲神社の鳥居を拝むと、山谷堀の船宿へ着く。三囲の鳥居は寛政改革で、中洲からの土が土手として積まれたため、舟からは半分程しか見えなかった。大半は近くの石川島運ばれ、人足寄場となった。今戸橋の辺り一帯には吉原の客を相手にする船宿が軒を並べ、多数の舟が舫っていた。文化8年(1811)の「吉原細見」によると、51軒の船宿があったという。船宿は緒牙舟や屋根船で𠮷原通いの客を乗せ、中宿(中継地点)となっていた。建物は二階建てになっており、上は小粋な座敷、芸者を呼んで宴会も出来たが、出合茶屋のように男女の密会や、色々な密談の場所にも使用された。この船宿のひとつに「たけや」があった。ここの女将はハリのある美声の持ち主で、対岸の向島に舫っている渡し舟を呼び寄せる時には、「たけやぁ~」と持ち前の美声を張り上げた。声楽的にいうと「メゾソプラノ」であろうか。この美声に羽根を休めている都鳥もウットリとしたという。

 吉原通いの通人は、柳橋やここでお仕着せの地味な着物を着替え、大門に向かった。ここまでの船賃148文(江戸後期1文≒¥25)≒¥3700也、現在タクシーで行くと¥2500~3000だという。芭蕉と曽良は深川から千住大橋であるから、もう少し値が張った。「山谷堀」から「日本堤」に向かうと「見返り柳」に出会う、「上首尾の 奴が見返る 柳かな」現代の木は三代目だという。「山谷堀」は石神井川の下流の一部で、新吉原の北部を過ぎ、浅草下瓦町と今戸町の境で隅田川に流れ込んでいた。大川から廓までの間を俗に土手八丁、日本堤と称し、堤に沿った堀を通いの舟が盛んに行き来した。武蔵野風土記稿によれば、「山谷」という地名の由来は、「元より平坦な地なれば、山谷などと名つくべきところに非ず。此の辺は古広野にて浅草、浅茅ヶ原の末野なれば、三野と云いしを谷に記せしや」となる。この辺りから江戸雀たちは、敵方と面談のため、着物の衿を直す「衣紋坂」から、だらだらと50間程の屈折した「五十間道」を上る。この道が屈折しているのは、大門を市井(外部)から直接覗けないようにしたためであるという。また、この道の両側にあった引手茶屋が50軒あったため、この名がついたと云われるが、実際は20軒ほどであった。いよいよ吉原唯一の出入口大門である。「日本(堤)を 八丁行くと 仙女界」となった。吉原は「おおもん」、芝増上寺は「だいもん」と読む。新吉原の敷地面積は3町四方、2万760坪。3,5m幅のお歯黒どぶに囲まれ、四隅に稲荷神社、中央を通る仲之町(大門通)の行き止まりに常夜燈が置かれていた。大門を潜ると左側は「面番所」町奉行所からの同心、岡っ引きが詰め、犯罪者が入り込まないように監視した。右側には「四郎兵衛会所」。新吉原総名主の三浦屋が四郎兵衛なる者を雇い、遊女や未払い客の逃亡を監視した番小屋が置かれていた。また、仲之町通リに面した、新吉原江戸町1丁目と2丁目の角を「待合の辻」と呼んだ。享保年間(1716~36)までは、揚屋町の角を指していたいわれる。この辻で遊女たちが床几に腰掛けて、敵方である客を待っていた。


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