「花の吉原」光と影 3新吉原紋日と四季

 大門からの吉原中央通リが「仲之町」、春には満開の桜、山吹を植え込み、それが終わると掘割を造って、菖蒲の花を咲かせたりと、新吉原ではその時その時の季節感と粋を演出した。また、大門自体は長屋の木戸口のように、木造で質素な造りであったが、渡り木には商売繁盛や、火伏せの札などが貼られ、庶民的な印象を与えていた。新吉原は1年を通して、四季の花と行事で彩られていた廓の街であった。

 江戸の吉原には「紋日(もんぴ)」とい独自の日がある。吉原細見によると、正月松の内を大紋日といい、他に五節句、盆、八朔、月見、毎月の1日と15日などがそれにあたった。現代では何々記念日に当たるため、商店などではそれを記念してセールとかプレミアムをつけるが、花の吉原ではその逆で、この日は揚げ代が倍となり、客にとっては大きな負担増となった。また、遊女たちはその日は欠席不可、その日客がつかなかった遊女たちは、揚げ代は自分たちの支払いとなった。つまり客が登楼するしないに関わらず、妓楼の利益は確保されていた。江戸の吉原は遊女たちの縛り付けと、犠牲によって成り立っていた。こうして、妓楼は儲けが倍になるため、どんどん紋日を増やしていった。多い月では月の3割程が紋日という月もあった。反対に遊女たちは馴染みの客にせっせと文を送ったが、勘定が倍になるのが分かっていて来る客は少なかった。遊女たちの借金は増えていくばかりであった。しかし、妓楼たちの思惑はそう長くは続かなかった。天明年間(1781~88)になってくると、その紋日が逆に自分の首を締めるようになった。余りにも多い紋日に、それを嫌って客足が遠のいたのである。寛政期(1789~1800)になって反省した妓楼たちは、紋日の大幅な削減を図った。お客様あっての、女郎たちが普通に働いてこその我々という、原点にやっと気付いたのである。

 吉原は「正月」になる前の年大晦日の引け四っが過ぎると、通行の邪魔にならないように、妓楼に向けて門松が飾られた。元旦の日は大門を閉めて全ての妓楼は休業、大広間に遊女たちなど全ての人間が集まり、雑煮を食べて新年を祝った。江戸雀たちも、年末からの用事に追い回されてきたためこの日は寝正月、江戸の町はこの日だけは、武士の挨拶廻りを除いて静かであった。正月2日は「仕事始め」女郎たちは引出茶屋などを廻って年始の挨拶、客にとっては初買いとなったが、実際には馴染みの客に料金だけ払って貰い実質は休み。何とも都合のいい日であった。この日を「仕舞日」と言った。翌3日は、お仕着せの小袖から、好みの小袖(跡着小袖)に着替えた。これも馴染みの客からのプレゼントになる。手拭いの吉原縛りという柄があるが、この柄に縛られると馴染みの客たちは、向こうのいうままに動かさられた。

2月は「初午」、3月3日は「桃の節句」ひいな祭りとなる。女郎の部屋にも紙雛が飾られる。桃が終わると江戸雀たちが大好きな桜の季節となる。江戸の桜はその土地に植えられた桜ばかりを観るとは限らない。新吉原には桜並木はない。旧歴3月1日になると、仲之町の大門通リ130間≒230mの道端に、咲きかけた桜の木が、山吹の木と共に運びこまれ、吉原の町が寝ている間に植えられる。桜色、黄色、緑色の三色の色のバランスを考え、夜間も鑑賞出来るように雪洞をともし、桜の木の高さも、2階からもうまく眺められるように調整されていた。一夜にして3月中旬から3月末頃まで、満開の桜並木となった。「明日からは 花が咲きんすと 文がくる」「昨日まで ない花が咲く 面白さ」こうして、満開の桜の花の下を、男衆の肩に手を添え、外八文字の花魁道中が進む。「花の吉原」絵になる風景となる。寛保元年(1741)から始まったとされる夜桜見物は、二代目市川團十郎が歌舞伎十八番「助六縁江戸櫻」の舞台にとりいれて、大当たりをとったため、廓の外からも多くの見物人に押しかけたという。やがて、花が散る頃になると、全ての桜の木は抜かれ、菖蒲、卯の花と移ろっていく。人間(遊女)も桜も、花の時期が終わると、見向きもされなくなる。栄枯盛衰、諸行無常は世の常、色褪せ始めた桜はさっさと片付けられた。「花までが 盛りが済むと 置かぬとこ」吉原の厳しい現実がそこにあった。

 旧暦4月1日は「衣更」それまで着ていた綿入れから袷(あわせ)となる。四月一日さんという苗字の方は、わたぬきさんと呼ばれる。9日は妓楼の軒に卯の花の枝を刺して、季節を味わった。5月5日の「端午の節句」は男の節句であるが、本来は女の子の節句、菖蒲は女性の代名詞として用いられ、廓でも堀割を造り菖蒲を植え、邪気を払った。衣類は袷から単衣に変わり、江戸は卯の花が香り、不如帰が啼く初夏を迎える。新吉原は7月1日から下旬まで「玉菊灯籠」が灯される。優しい気使いをしていた、玉菊という角町の太夫がいた。その妓が病で25歳という若さで死んでしまう。茶の湯、生け花など諸芸に通じ才色兼備であり、特に河東節の三味線が上手かった。廓の人間たちは、玉菊を偲び、新盆に引出茶屋の軒先に提灯を下げて、優しかった玉菊を偲んだ。軒下の提灯は凬に揺れ、幻想的な吉原の夜の世界を醸し出した。後に、玉菊灯籠は新吉原の年中行事のひとつとなっていった。7月7日は七夕、思う男の名を短冊に書いて、星に願いを託した。12日は仲之町で草市、植木と一緒にお盆用の品も売られ、次の13日は、新吉原は元旦以来の休業日、江戸の小僧たちは実家に帰り、親に甘える事が出来たが、売られてきた妓たちはそれも出来ず、仲間たちとおしゃべりして、淋しい1日を過ごした。

 8月1日は「八朔」。本来は稲の初穂を田の神に添える田実、田面(たのみ)の祝いの日であり、農耕行事のひとつであった。「たのみ」が「たのむ」に転訛していった。現代の暦に直すと、8月末頃、田圃の稲が実る前に豊作を神に願う行事と、縁起を担ぐ家康が、主従、仲間同士、互いに物品を贈りあう武家行事としていった。天正18年(1590)小田原氏滅亡、三河へ帰れぬまま、8月最初の日、徳川軍団は覚悟を示すため、白装束に身を固めて「神君江戸御討入の日」を果たした。江戸幕府において八朔は、五節句の中でも、特に「節日の日」とされた。新吉原でも、城の武士たちを真似、白一色の衣装で客を迎えた。彼女たちの衣装は白無垢、秋の雪、里の雪などと呼ばれた。吉原で白無垢を着るようになったのは、諸説あるが、寛文年間(1661~72)大坂新町の太夫・夕霧が、8月なのにその日は寒かったので、白小袖の重ね着をして見世に出た。その姿が(袷より小袖の方が着た形は良く見える)が評判となり、江戸の吉原でも、深川などの岡場所や品川辺りの宿場女郎と格式の違いを見せるため、武士と同じ様な白無垢の衣装を着て見せたというのが、本筋であるという。しかし、この虚栄と張りの衣装は、上得意の客がいて、そこへ頼み込める遊女たちは良かったが、そうした客を持たない他の妓たちにとっては、また借金がかさむ苦痛の日であった。この月は着物に限らず、布団、畳替え、禿の支度などで50~100両の物入りが重なった。「白無垢で とかく寒気が しいすなり」白無垢は八朔が過ぎると、どの遊女も質入れして現金化して、借金を少しでも返すようにした。「八月の 二日質屋に 雪が降り」現代の女性たちは、数多くいる何々君から同じ様な指輪やバックを買ってもらう。それもなるべく高い、同じ様な物をプレゼントさせる。そのうちのひとつだけを残しておいて、他の物は高く買い取って貰い現金化する。このノウハウ、自分たちが考えだしたものか、DNAがそうさせるものか定かではないが、これががビジネス化していくと、現代の男と女、情も絆もなくなっていく。「吉原は 実も誠も ありんすよ」三ノ輪の浄閑寺から、こんな声が聞こえてきそうだ。

 新吉原は立派な観光名所でもあった。観光名所には土産物はつきもの。巻煎餅に最中、二日酔いに効くといわれた袖の梅などの他に、花魁たちの浮世絵、美人画がよく売れた。吉原を観光地化させた一つのイベントに8月期間中の「俄」がある。新吉原の裏方たちが主体となって、歌舞伎や昔話の人物に扮し、踊りや演奏、寸劇をしながらパレードした。日中は往来が解放され、一般の女性客や子供たちの見物も多かった。8月14日~16日は月見、中秋の名月を鑑賞した。9月9日は「陽」の日が重なる特異日、江戸では「重陽の節句」菊酒を飲んで、自らの健康と長命を願った。この日から遊女の衣装は、冬模様となる。10月の最初の亥の日は「亥の子祝(収穫祭)」皆で牡丹餅を食べて祝った。11月に入ると8日には火除けのまじないとして「ふいご祭り」、それに関連して17、18日の両日には「秋葉大権現の祭礼」。12月13日は江戸城大奥からその慣習が広まったとされる「煤払い」遊女たちも、手ぬぐいを被り、たすき掛けして奮闘した。集まった1年の煤や埃を眺め「銭金も こうたまればと 煤払い」とため息をついた。12月も20日を過ぎると正月の用意となる。餅つきをして松飾を飾る。いよいよ、31日は大つごもり、この日は妓楼に「狐舞」が押しかけてくる。この狐に抱きつかれると、妊娠すると信じられていたため、遊女たちはきゃあきゃあ云いながら逃げ回った。こうして賑やかなうちに、江戸の吉原は新しい年がやってきた。



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