「花の吉原」光と影 4 遊女たちの1日
吉原は幕府公認の遊郭(廓)であり、そこで仂く女性たちを遊女と呼んだ。公許の遊郭は、江戸の吉原の他に、京に島原、大坂に新町、長崎に島原があった。現在では江戸の娼婦を遊女と呼ぶことが多いが、当時は「女郎」と呼んだ。女郎とは上臈が訛った言葉で、身分の高い女性を指す言葉である。彼女たちを置いて営業している見世を、妓楼、女郎屋、遊女屋、娼家などと呼ぶ。なお見世とは、格子の中の遊女たちを「世間」に「見せる」ことに由来している。
遊女たちの24時は、明け六っ≒午前6時に始まる。泊りの客を階段まで、若しくは引出茶屋辺りまで見送る。別れがたい馴染みの客は大門まで見送り、またの再会を約束して別れた。寝間着姿の少々腫れぼったい顔も、情が絡むと悪くない。こうした悲喜こもごもの思いをして、客を送り出した後、遊女たちはもう1度、布団に潜り込み、ひたすら二度寝を楽しむ。彼女たちにとって、二度寝の時間は至福の時間であった。苦界に身を沈めてから、前日の仕事が辛ければ辛い程、体と心を休める癒しの時間であった。自分勝手に熟睡出来る、今でいうなら爆睡出来る最高のひと時であった。巳時(10:00~12:00)になって、短かった1人だけの時間が終り、遊女たちの仕事が始まる。どうにか起き出して、下の広間で長い飯台に並んで朝食となる。大正15年の記録によると、朝は御飯盛り切り1杯と味噌汁、漬物。昼は夕方4時頃、御飯と煮しめにたまに魚や海苔。夕食は夜11時頃に昼間の残りの冷や飯に漬物、夜は無しの妓楼もあった。江戸時代はもっと粗末であったと思われる。こうした事情から、多くの遊女たちや禿たちは、宴席に出された肴などを摘み喰いをして、また、それらを取っておき、翌日の朝や昼に小鍋で煮て、栄養不足を補った。それから風呂、お喋り時間、ゆうべの客の品評会が始まる。この時間帯も貴重である。営業に備えて化粧を始める。完全に夜向き化粧のため厚く濃い。因みに、江戸の娘たちはこれに反抗してか、化粧水に紅を引くといった極めてシンプルな薄い、いわゆる地肌で勝負した。
九っから七っ(12:00~16:00)までが昼見世、妓楼は自分たちの店頭に「盛塩」をする。古代中国の皇帝は、あまた多い後宮の美女たちを巡る時は牛車を利用した。この牛、塩を舐めるのが大好きである。江戸雀たちも塩を舐め舐め、日本酒をぐい呑みするが、それに気付いたある才女が、自分の部屋の前に毎晩塩をもった。必然的に牛はそこで止まる。皇帝も牛が止まったから降りる。才女は皇帝の寵愛を受けたという。この故事から、今でも老舗の料亭などでは、開店前に大勢の来客を期待して、叩きに塩を盛る習慣がある。働く女郎たちは格子のある部屋に出て並ぶが、余り客は覗かないお茶ぴきの時間である。気の利いた妓たちは、馴染みの客にせっせと文を書いて送った。淋しい、逢いたい、話をしたいと、営業トークを並べて客の気を引いた。この嘘八百を真に受けて来る客もいた。現代もアナログからデジタルに変っただけの話しである。彼女たちの深層心理は変わっていない。「昼見世は よく笑う子を 前にやり」営業の上手い妓を表面に座らせて、他の妓たちは、大体が暇を持て余して、近くの子供たちと遊んだりしていた。たまに2~3人連れで覗きに来るが、この連中は冷やかし組で登楼はしない。根岸から山谷堀辺りは江戸期、瓦を焼く窯が多く、今戸焼なども焼かれていた。また近くで古紙を再生している職人たちもいた。彼らは煮立てた浅草紙を冷ましている間に、昼見世の女郎たちをからかいに来た連中である。金を使わないで帰っていく客を「冷やかし」と呼ぶのは、ここから始まったとされる。吉原の女郎たちは、稀に客がつけば二階の座敷で相手をしなければならなかった。七っ(16時頃)遅い昼食となる。申時(16:00~18:00)は「花魁道中」の時間帯である。四季の花々が咲き乱れる仲之町を、花魁が禿を引き連れ、湯女であった勝山が考案したという外八文字の歩き方で、引出茶屋まで呼び出し(指名)を受けたお客様を迎えに行った。
酉時(18:00~20:00)新吉原不夜城の幕開けである。鈴が鳴らされると女郎たちは、皆な下に降り決められた場所に座り客を呼ぶ。戌時(20:00~22:00)酒宴が始まる頃である。女郎たちは初回では、顔を見せるだけで斜めに構え、言わへん、食べへんのスタイルをとる。2回目は裏を返して、少し返事が返ってくる。何度も店に通わせてリピーターにするのは、この辺りからのノウハウだと思われるが、今では最初から、がっちり客の気持ちを掴んでおかないと、その客の2度目はない。亥時(22:00~24:00)3回目の登楼でそろそろ床入、夜具は綿の厚い、三つ重ね五つ重ねの紅の布団である。「その高さ 三尺有余 あるを敷き」「うちの夜具 四五十出来る 程かかり」安永の頃(1772~80)から、3回来させるシステムは無くなった。子時(0:00~2:00)新吉原の表向きの営業時間は四っ(午後10時)迄であったが、現実は九っ(午前0時)迄であった。六っ(午後6時)から四っまでの、夜見世の営業時間帯、4時間では稼ぎにならなかったため、延長は黙認されていた。わざと午後10時になると、拍子木を四っ打たずに、九っなる直前に大引けの拍子木「四っ」を打った。これが「引け四っ」を意味した。頭のいい奴が考えて、九っまでは四っ時であるため、九っになる直前に、四っ時を打てばよろしかろうとなり、「引け四っ」が生まれた。2時間余分に稼いだのである。「吉原は 鐘まで嘘を つく所」。勿論、四っになると大木戸は閉められるが、くぐり戸は開けたままなので、商売には差し支えなかった。格子の中で待機していた女郎たちは、この時点で一応引き揚げる。朝までの貴重な時間となる。一方、丑時(2:00~4:00)真夜中になっても客が重なっている女郎たちは、妹女郎にたのんで代役をして貰うことになる。しかし、中には野暮な客がいて、夜中にも関わらず、妓楼の主人を呼んで悪たれをついた。今も昔も上には弱く、下には滅法強い輩は沢山いる。酔ったふりして駅員に絡むのもこの類である。融通が利かない人は沢山いて、本人たちにすれば色々な事情があるから、その人たちを何とも言えないが、人に迷惑をかけたり暴言、暴力はいけない。花の吉原、粋な客のつもりが、田舎の大尽となってしまう。
夜見世の表向きの「引け」は四っで、妓楼の表戸は閉められるが、登楼している客の接待は続く。大引けの拍子木の後、客のいない女郎たちは、1度階下に降りて時札(ときふだ)を架け替え、それぞれの部屋に戻って布団にくるまる。ほとんど外出することもなく、外の空気を吸わず、1日を酒色の客と接している、極めて不健康な生活の繰り返しとなる。しかし、女郎たちはまだ若い。毎日の食事だけでは腹もすくし、栄養不足にもなる。そこで登楼した客たちが寝入った頃、布団から抜け出して座敷の残り物を摘みながら、その日の客の悪口が始まる。食欲を満足させ、その日のストレスを解消させた。寅時(4:00~6:00)そろそろ客が帰る時間帯である。今日の仕事が気になる連中や、家に居る山の神が気になる連中が布団の中から這いだす。女郎たちも馴染みか否か客によって、また、本人のその日の気分によって見送りの対応を変えたが、現代のようにベッドの中から生返事ということはなかった。
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