「花の吉原」光と影 5 遊女哀史

 新吉原の薄曇太夫が飼っていた猫が死に、猫塚や猫の像がつくられたという。左側の前足を挙げているメス猫の像は、客(幸運)を招き、右側の前足を挙げているオス猫の像は、金運を招くという。遊郭では、この前足が耳の後ろまで上がっていればいるほど、福を招き運が強くなるという。新吉原も元禄期(1688~1703)になると、客層の変化がみられ、武士階級から経済的に豊かになり始めた商人層に代わっていく。武士の門限は子(ね)の中刻≒午前12:00、三十六見附の開門明け六っ、閉門夜九っに、武士の門限が対応していた。この時間に遅れると外泊と見なされ、御家断絶もあり得たため、遊郭などでの寝泊まりは、望んでも口説かれても無かった。旅好き侍は日帰りで、江戸近郊の名所を楽しんだが、武士階級は永遠に上がらない俸禄で、窮屈な生活を強いられていた。

 遊女たちの階層は、「太夫」「格子」「散茶」「梅茶」「局」の5段階となる。遊女たちの階級制が成立していく過程で、美貌だけでなく、教養や芸事にも通じた遊女たちに対して「太夫」の称号が与えられていった。才色兼備の太夫の数も、本吉原の寛永20年(1643)には18人余り在籍していたが次第に減少、万治元年(1658)の吉原細見によれば、太夫3人、格子67人、局365人、散茶669人となった。宝暦2年(1752)には1人となって、太夫の名称は消滅し、大衆路線に切り替わっていった。「琴棋書画 並べたばかり 知りせんね」となった。因みに「花魁」という呼称は、本来は「呼び出し」を花魁と呼んだとされる。これより下位の遊女たちを、花魁とは呼ばない。花魁の語源は、妹分の「禿(かむろ)」たちが、先輩を「おいらの姉さん」と呼んでいたことによる。上級遊女の太夫、格子たちがいなくなると、散茶女郎の時代になっていく。散茶とは、茶葉を挽いて粉にしておき、急須を振らなくとも直ぐに飲むことが出来たことから、客を振らない女郎たちを散茶女郎と呼んだ。散茶女郎はは「呼出し」「昼三(ちゅうさん)」「附廻(つけまわし)」の3段階に分かれ、その下に、下級遊女の「新造」、15歳になったら新造となり客を取らされる10歳前後の「禿」がいた。禿の多くは年貢を払えない貧困家庭から売られてきたとか、人さらいに騙されて連れてこられた子供たちである。「御年貢は 怖いものだと 禿いい」花魁道中で前や脇について姉たちを引き立てたり、酒宴で座を和ませたりした。先輩たちと同じ様な境遇にいたため、肉親以上の情愛で繋がれていた。

 「享保の改革」享保年間(1716~35)を機に、質素倹約ムードが一段と進み、吉原が庶民の手に届くようになるのは、11代家斉の時代の老中、田沼意次による「重商政策」により、江戸市中に金が廻り始めたことによる。また、明和9年=安永元年(1772)2月、付け火により目黒行人坂の寺院から出火した「明和の大火」で新吉原は炎上、焼け出された遊女たちは、他の見世に出て営業をした。廓内を全焼した火事は慶応2年(1866)まで23回、9年に1度の割に焼け出された。また、安政2年(1855)10月2日に起きた「安政の大地震」によって、新吉原の遊女たちが、530余犠牲になった。同4月には甲州道中に、新しく内藤新宿が加わった。宿場女郎は半ば公認され、再開された新吉原は一段と低価格、大衆化していった。また、鈴木春信や喜多川歌麿などの浮世絵や、吉原細見などの吉原ガイドブック、歌舞伎役者のように、花魁たちがファッションリーダーを務めたりと、新吉原は一般庶民層とより親密化していった。更に廓内の努力もあった。地方、特に東北地方からきた遊女たちに、統一した「廓ことば(アリンス言葉)」を使わせて、客を夢の世界に引きずり込んだことである。「日本から アリンス国は 遠からず」。田沼時代の後を継いだ松平定信の「寛政の改革」寛政元年(1789)により、新吉原は全体的に質が低下、化粧も全盛時代は高級遊女たちはスッピンを通し、本人の素材の良さを売りにしたが、改革以降、岡場所と変わらず濃くなっていった。次の水野忠邦は「天保改革」天保12年(1841)で、70ヶ所余の岡場所を全て取りつぶし、遊女屋と私娼は吉原へ送った。大見世は1軒だけとなり、質的低下が加速されていった。新吉原に入れられた私娼たちがは、苛酷な労働条件を克服していくため、客の争奪戦が激しさを増していった。客が見世の前を通ると、客の袖をもぎ取る程の勢いで腕を引くことから、そこは「羅生門河岸」と呼ばれた。また、客を蹴り転がすように見世に入れたことから、そこは「蹴転(けころ)見世」と呼ばれた。更に、天保の大飢饉で、農村部から売られてきた娘が、大勢江戸へ流入してきた。安政2年大地震、同5年、コレラ、麻疹といった伝染病が大流行、過酷な労働条件を強いられた遊女たちは、正に死ぬも地獄、生きるも地獄であった。明治5年、新政府によって「娼妓解放令」が発布、その文面が「娼妓芸妓ハ 人身ノ権利ヲ失フ者ニテ 牛馬ニ異ナラズ」遊女たちを否定したのである。江戸のよき遊郭、江戸の町人文化をリードした、新吉原は完璧にまで打ち砕かれた。

 遊女たちの法定年令は、17~27歳までの苦界10年。ここで働く女郎たちは、10年間の苦界に身を沈めた。「浅草で売られ 目黒で年が明け」浅草寺の縁日は18日、目黒不動の縁日は28日である。数えの18歳で売られ、28歳という当時でいえば、大年増でやっと年期があけた。多少の前借を棒引きにして(これを「証文を巻く」というが)、親元へ帰した。馴染みの客がいれば、その客と一緒になって、幸せな夫婦生活を送る事も出来た。しかし、こうした運のいい遊女たちはごく稀で、借金のため、四宿や岡場所に転売されていった。これを修飾語で「住み替え」という。生きている間に労咳(肺結核)に冒され、栄養不足に陥った遊女たちは、医者にも診てもらえず、薬も与えられず、一人で淋しく死んでいった。仏様は裸にされ莚に簀巻きにされ、堤の道哲といわれた日本堤下の弘願山専称院西方寺か、三ノ輪の浄閑寺(投げ込み寺)の共同墓地に、無縁仏として投げ込まれた。寺の過去帳には「〇〇売女」。死んでも汚名が残った。葬儀料は大見世2朱、中、末見世は1朱(16朱=1両≒¥8万~15万)。記録が残る寛保3年(1743)から大正15年(1926)の180余年間、投げ込まれた遊女たちは、約2万5千人に及ぶ。「生まれては地獄 死しては浄閑寺」死んでいった遊女たちは、彼岸で極楽を見ることが出来たであろうか。仏様に出会えただろうか。


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