「花の吉原」光と影 6 岡場所
幕府が営業を公認している遊女たちを公娼といい、その場所を遊郭と呼ぶ。江戸は吉原、京は島原、大坂は新町、長崎は島原であった。この4ヶ所だけが遊郭で在り公営の遊郭であり、それ以外の市中に散在する非公認の遊郭、私娼(隠売女・子供ともよばれた)が集まった場所を「岡場所」と呼んだ。岡=傍(おか)、即ち脇や外の場所を意味する言葉である。また一方、舟で遊びに行く客にしてみれば、舟から見れば岡(陸)であったことからの言葉ともいわれ、江戸での岡場所を大坂では、島場所、外町と呼ばれた。「隠れ里」「隠し町」とも呼ばれた岡場所は、湯女風呂に代わり、江戸近郊の寺社門前地の長屋から発展していった。岡場所の遊女は伏玉と呼ばれる妓楼や茶屋に抱えられる遊女と、呼出しとよばれる通いの遊女がいた。また、呼出しには置屋に抱えられる遊女と、出合衆と称される自前の遊女の二通りがいた。伏玉とよばれる妓楼、小料理屋などは、私娼を抱え自家を揚屋としている見世である。岡場所ではこの形態をとっている見世が多かった。岡場所を利用する客は収入が少なく時間的にも余裕のない職人や奉公人などの、多くは時間決めの遊び客であり、吉原のように馴染み客とは異なり「切遊び」が原則であった。岡場所のひとつ深川ではどこでも昼夜を五つに切って、一切れいくら(揚げ代)で値段が決められていた。深川の高級料理茶屋でも、ひと座敷に1人の客をとるという事はまずなく、2~3人、多い場合は5人程の客の相部屋というのが普通であった。
岡場所は宝暦年間から天明年間(1751~89)にかけ、特に田沼時代に最盛期をむかえ、60から70余(190~200ヶ所、働く私娼約2千人~4千人の説もある)の岡場所が存在したと云われ、その半数近くが隅田川(大川)の周辺にあった。深川、根津、本所弁天町などは、吉原と並ぶ歓楽街に発展していった。特に川向こうの深川界隈は「辰巳」と呼ばれ、岡場所の代表地、最大25ヶ所の岡場所が存在した。八幡宮創建以来の歴史の古い「深川仲町」深川永代寺門前の「櫓下」「据継」「土橋」「佃」「石場」「大新地」は「深川七場所」と呼ばれて繁盛した。税金の見返りが認められる公営の吉原の設立以降、幕府は宿場女郎(飯盛女)以外、岡場所の存在を認めていない。寛政年間(1789~1800)松平定信の「寛政の改革」によりで、岡場所は統制が強化され、回向院前、あさり河岸、中洲、六軒堀、浅草門跡、馬道、千駄木、白山、市谷八幡、氷川など55ヶ所が整理統合され、水野忠邦の「天保改革(1841)」によって、深川仲町、市兵衛町、佃、古市場、吉田町、谷中、根津、赤坂、三田など、残されていた27ヶ所全部が、江戸四宿の宿場女郎、飯盛女を除いて廃絶されたが、岡場所は場所や名前を変え明治維新迄継続した。
江戸の岡場所の数と場所は、その実態が掴められないほど多かった。寺社の門前には必然的に岡場所が存在した。死んだ仏の供養と、生きている仏様の供養を併せて賄った。「仏の顔は三度まで 地獄の閻魔は一度きり 三途の川も金次第 来ない男はそれっきり」と、門前で働く私娼たちは、法の目をくぐって営業を続けた。岡場所(私娼)への一斉捜査を「警動(けいどう)」というが、寛文期(1661~72)には、岡場所は非合法の私娼として、一度に500人もの私娼たちが捕まり、新吉原へ送られセリにかけられ「羅生門河岸」で3年間,開放されるまでタダで働かされた。この様な厳しい取締りにも関わらず、彼女たちが営業を続けたのは、現代でも同様に局の政治形態が縦割り行政のためであった。区域によって管轄する組織が異なったため、その合間をぬって私娼たちは泳ぎ回った。現在でもひとつの問題が起きると、その責任を他の組織に転嫁しようとする。私娼を取り締まるのは町奉行、寺社地を管轄するのは寺社奉行である。縦のつながりはあっても、横のつながりはない。それぞれ自分たちの管轄=シマを大事に守った。従って余計な仕事をしたくない監督官庁のお陰をもって、彼女たちはノビノビと半ば公然と商売をする事ができた。おまけに寺社奉行所の配下は少人数であったし、僧侶や神主たちは幕府中枢部にも顔が利いたので尚更であった。「何事も 波風立てず 退職し」その上で目立たぬように接待を受けるのが、今も昔もかわらぬモットーであった。
私娼であり、岡場所の一角を形成していたが、幕府から半ば黙認され、街道筋の旅籠で働いていた非公認の私娼たちの総称を「宿場女郎」と呼ぶ。単に「飯盛」「食売女」「おじゃれ」とも呼ばれた。飯盛とは食糧事情の悪い江戸時代において、客が茶碗に盛った御飯を食べ残すようにわざと大盛りにして、残りを自分用にしたことから付けられた。また、おじゃれとは「いらっしゃいませ」という意味で、宿場女郎たちが、客を呼び寄せる時におじゃれといいながら、強引に自分の宿に引き入れたという。彼女たちは延暦3年(783)からの平安時代には、既に交通の要衝に存在していたと云われ、交通網と経済の発達に伴いその数は増加していった。万治3年(1659)江戸幕府は、道中筋に遊女(公娼)を置くことを禁止した。しかし、享保3年(1718)になると諸事情により、宿場女郎を江戸十里四方の旅籠1軒に2人までとし、衣装は木綿生地と定めてその存在を黙認、これを道中奉行の支配下においた。宿場女郎とは、江戸四宿に働く給仕兼売春婦であり、幕府は江戸府外の場所であるということで黙認した訳であるが、同年の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。五街道が制定され宿場が設置され、旅籠屋が発展していったが、その裏には無償の公約の負担や競争により、旅籠は財政難に陥っていった。ここに幕府には、街道筋の存続のため、旅籠の財政収支の建て直しと集客力アップを目的として、飯盛女を置くことを容認した。こうした事情もあって、各旅籠は法の目をかいくぐって、下女の名目で雇い入れた女性たちにも、そうした仕事に従事させる例も多く見られた。安永元年(1772)には、千住宿や板橋宿に各150人、内藤新宿には250人、吉原が「北國」と呼ばれていたのに対し「南國」と呼ばれた品川には、500人と人数制限をして、公許の吉原に対処した。しかし、明和元年(1764)品川遊里の実態は、平旅籠20軒に対し、飯盛旅籠は90軒、宿場女郎は千人を抱えていた。こうして、交通機関のひとつである旅籠の保護を目的として、方策がたてられたが、宿場女郎の対象が次第に宿内や近在、特に助郷の農民たちに移っていった。このことは宿場と助郷内の紛争の種となっていった。やがて明治維新となり、明治5年には人身売買の禁止、年期奉公の禁止などが施行され、宿場女性たちは形式的には解放されていった。
幕府から黙認されなかった他の岡場所の私娼たちには、雉子橋通リの丹前風呂に働く湯女がいた。彼女たちは元吉原を凌ぐほどの興隆をみせたが、私娼を認めない幕府の方針により、明暦大火後、浅草田圃に吉原が移転するのに併せて取り潰され、新吉原に吸収されていった。湯女は江戸だけでなく、温泉地にもその存在が認められた。また「茶汲女」の名称で府内に存在していた私娼たちは、宿場女郎たちと同様に幕府から黙認されていた。その後江戸には名を変え姿形を変え、ノウハウを変えた大勢の私娼たちが出現した。芳町や湯島の「陰間茶屋」、尼僧の姿をした「比丘尼」、上野山下の「蹴転(けころ)」、両国橋の「舟饅頭」、両国弁天の「金猫」、深川佃町の「あひる」、重箱を抱えて売り歩くく「下げ重」たちがいた。「客ふたつ つぶして夜鷹 みっつ喰い」夜鷹が三杯食べたのは立ち食いの二八蕎麦である。当時の1文は今でいう¥25位に相当した。深川回向院には「猫塚」がある。現在のペットの墓ではなく、江戸の著書「蜘蛛の糸巻」によると、回向院の参拝客を相手に、商売をしていた私娼たちを「銀猫」と呼んでいた。その猫たちの弔塚である。一方、吉原では、遊女たちを妓楼の主たちは「子ども」と呼んでいた。また、水上交通に依存していた江戸やその近郊には、多くの湊を抱えていた。船橋(海神)にはペーペー言葉を使っていたことから「八兵衛」、興隆を極めた岡場所根津が、維新後近くに帝國大学ができることになり、教育上如何なものかで、移転してきたのが深川洲崎である。玉ノ井、北千住など各地に散在していた私娼街(赤線地帯」は、昭和33年、4月1日「売春防止法」の施行実施により、その火は消え闇に潜っていった。 「花の吉原 光と影」了
0コメント