<人之巻>第7章 江戸名物Ⅰ 武士・鰹・大名小路・広小路

 江戸名物は、武士、鰹、大名小路・広小路、茶店に江戸紫、火消し、錦絵ときて、火事に喧嘩に中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬の糞とくる。それに「チーム江戸」の独断と偏見で、江戸小紋に江戸顔を入れてみた。これらの人間、事柄から江戸っ子たちの生き方をさぐってみよるとする。因みに「京の名物」は、水、壬生菜、京女に染物、張扇、寺院、豆腐、人形、焼物。「奈良の名物」となると、大仏、鹿の巻筆、奈良晒、春日(大社)に、灯籠、町の早起きだという。それぞれその土地の特徴があって面白い。

 <武士>大宝元年(701)に「大宝律令」が公布され「公地公民」が制定された。国から与えられた荘園を奪ったり、作物を略奪する事件が多くなった為、農民達は武装して自らの権利を守る様になっていった。この武装した農民達が武士の始まりとされる。武士が歴史の表舞台に登場してくるのは「保元、平治の乱」である。昔の教科書では「鎌倉幕府」の成立は、いい国作ろうで1192年(建久3年)であった。現在では、いい箱作ろうと云う事になり、1185年(文治元年)だという。この年は平家が壇の浦で敗れ、頼朝が従二位に叙せられた年である。その後、江戸幕府が崩壊する「明治維新」までの約680余年、武士の政権が続いた。実際には明冶10年の「西南戦争」をもって武士の世は終わったとされている。江戸幕府の武士階級は、将軍を頂点に1万石以上の国持大名と諸藩の藩士、将軍直属の家臣団に旗本と御家人がいた。旗本は御目見得以上1万石未満の武士で、仕事は江戸城の警備や将軍の護衞を担当する「番方」と、施政の機能を担当する(文官」とがいた。時代を通して出世した者は5代綱吉の側用人吉保、8代吉宗で町奉行を勤めた忠相がいるが、殆どが無役、侍(騎兵)と呼ばれ約5千人、知行取りか蔵前取りで100~500石取りが約60%を占めていた。一方、徒士(歩兵)と呼ばれた御家人は17000人余、与力、同心で働く者もいたがこちらもほとんど無役、年3回の蔵米を受け取り、約94%の御家人たちが年間49俵以下の扶持米であったという。江戸と地方が同じ石高であっても、諸藩の藩士たちは、藩から「給人地」が貸し与えられ、半農半士的な生活で一応台所は安定していたが、幕府御家人たちは「譜代」などと云って家督が許されていた者もいたが、一代限りの「抱席」も多くいた。その上一生増えない蔵米だけの収入と、慢性的なインフレ社会にさらされ、その生活は厳しいものがあった。この為それぞれの組屋敷において、内職に精を出さざるをえなかったのである。支配体制側にいた武士階級であったが、実質は商人たちと生活面では逆転、見栄と体面だけが保たれていたのである。「武士がきて 買っていくのは 高楊子」

 <鰹>江戸っ子たちの見栄と自己満足を満たした「初鰹」は、反面、江戸っ子たちが、江戸に生きている証拠でもあり生甲斐でもあった。女房を質に入れてもといわれた初鰹は、この女房なしでは生活出来ない、亭主たちのこれも見栄と強がりであったが、たとえ奇特な質屋が預かったとしても、それに見合う味では決してない、ただ、他人より早く食べたという話だけの見栄である。青葉若葉が目にしみる旧暦4月頃、南方の海から黒潮に乗って、土佐沖、紀州灘、遠州灘から鎌倉沖とやってくる。紀州灘辺りからは灘の新酒と同じコースとなる。品川沖でこの灘の酒を抱え、八艘櫓で運ばれてくる初鰹を待っているのは「初物喰い」を自認する粋人の集団である。懐の一両を向うへ投げ込めば、鰹が一匹飛んでくる。「阿吽の呼吸」である。これを舟上で捌き、辛子を添え地廻り醤油をたっぷりとかけパクつく。喉には鰹の生臭さと醤油の香り、鼻には海の潮風がまとめて体の内に飛び込んでくる。江戸っ子たちの生きている証があった。この場面での鰹は、醤油やツマや辛子に負けない、少々厚切りの切り身がいい。「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」素堂。江戸の一番過ごしやすい季節の情景を詠んだ句である。五七五の語句からはずれ字余りである。素堂師匠の本意は目には青葉がしみこむ季節となり、耳にはほととぎすの鳴き声が聞こえ、勿論わたしの繕にも、鰹が上るようないい季節になりました、と伝えたい結果、「目には」と字余りであっても、そこをあえて強調したかったに違いないと伺われる。鰹より江戸の生活に密着した魚が「鰯」である。鰯を代表するのは真鰯(真鰮)がある。鰯は読んで字の如くで、痛み安い魚である。冷蔵庫の無い、せいぜい井戸の時代の江戸にあって、塩漬けや煮たり焼いたりと、加工しない生鰯を食べる機会は貴重であった。鮮度のいい物を手で捌いて(手開き)何度もよく洗い、冷たい(今なら氷水)にさらす。この事で傷みが軽くなり、余分な脂がぬけ、身が締まる。これを生姜醤油で食べると鰯の臭みがとれさっぱりとして旨い。握りにしても旨いが、これは一切れだと人斬りに、三切れだと身切れに繋がるため、必ず二切れで出された。他に味噌や茗荷っ子、青紫蘇などを添えて包丁で叩く「なめろう」や「つみれ汁」も旨い。「隣りの子 おいらのうちでも 鰯だよ」

 <大名小路>太田道灌が開いた江戸城の前に「日比谷入江」が拡がっていた。幅は内堀の石垣辺りから、現在のJR線路の際辺りの800m余、奥行きは平川の流入路の近くの常盤橋御門跡辺から、先端は汐サイトあたりまで約3㌔、深さは1m半余の遠浅の入江であった。家康は入府後、道三掘や小名木川の開削と併行して、日比谷入江の埋立てに着工した。外国船が入江内に潜入して、城が砲撃の対象になるおそれがあると進言した三浦安針の意見をいれたものであった。加えて江戸が政治都市になるにあたって、政治を担う大名たちの、屋敷地を賄うためでもあった。神田の台地や道三掘、西の丸掘割の残土を充てがい、平川の流水を捌くための外濠川を開削して、造りあげたのが大名小路である。江戸の街はここより右渦巻き状に開発され、酒井家など徳川譜代の大名たちが拝領した屋敷地になった。現在の日比谷公園、皇居外苑、丸の内辺りである。この辺りは本来は入江、埋め立て地であった為、地盤が軟弱であり、重量が嵩む高層ビルの建築には長い間、適した土地ではなかった。現代では建築工法の進歩により、高層ビル群の景観が可能となった。日比谷を第1の大名小路とするならば、第2の大名小路は愛宕山下東側の一角である。元禄年間(1688~1703)には、大目付仙石伯耆守などの屋敷があった。元禄15年3月15日、本懐を見事に果たした浅野家浪士46名は泉岳寺に向かった。内蔵助に命じられた吉田忠左衛門ら2人はここへ討ち入りの報告を行なった。47番目の浪士、寺坂吉右衛門はその頃隊列を離れ、1人目黒川に出て品川を目指していた。内蔵助以下一党が泉岳寺で亡き殿へ報告後、四家に預けられるまで詮議をうけた屋敷でもある。現在の西新橋から虎ノ門辺である。

 <広小路>火事が多かった江戸の街において、その延焼防止の一役を担ったのが広小路である。大きなものとして、両国、上野、浅草がある。明暦3年(1657)に発生、江戸城天守閣まで炎上させた、都市火災でも世界最大級の「明暦の大火」は、江戸の政治体制を替え、江戸の町は急拡大、都市の防災方法にも発展がみられた。火除地や防火地、防火堤や土手を造り、火の見櫓や水桶の設置、屋根は瓦葺きとし土蔵なども造られた。また、日本橋の商家では、火事に備えいつ遭遇しても建て替えが可能な木組みを、木場の掘割に準備していた。このメンテナンスは昭和の戦争まで続けられたという。また、享保年間(1716~35)幕府からの火除地構想を、日本橋地域では回避した結果、現在の地割になっている。仮に広場が作られ、戦後の高速がなければ、日本橋はまた別の発展をみせていたかも知れない。やっと、日本橋の上にかぶさっている、高速道路の念願の撤去が始まった。




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