江戸名物 ➁茶店・江戸紫・錦絵・浅草海苔

  <茶店>日本で茶を飲む習慣が始ったのは、奈良、平安時代に遣隋使や遣唐使の留学僧たちが茶の苗木を持ち帰って、我が国で栽培したのが始りだとされる。平安時代初期において、嵯峨天皇にお茶を献じたという記録もある。我が国での茶店の原型と云われるものは、京、東寺の南大門前の「一服一銭」であると云われる。当時のお茶は、茶の葉を蒸して餠のように固めた団茶(餠茶)を粉末にして、お湯に溶かして飲んでいたと云われる。これは、貴族や僧侶たちだけの間での習慣であり、庶民にはまだお茶は遠い存在であった。やっと江戸時代に入り「お茶壺道中」のような偉い抹茶に対して、庶民的な煎茶の生産が行われるようになった。安い煎茶でも飲む前に、さぁ~と和紙の上で焦がさない様に軽く煎り、湿気をとばし、香りがついたら鉄瓶のお湯を急須に注ぐ、もう高級茶玉露の出来上がりである。安い物を高く使う、手近な素材を旨く食べる、江戸に住む庶民の知恵であった。「江戸の町内の半分は喰い物屋なり」と(皇都午睡)は記す。茶葉の生産や小売りをする商売を「葉茶屋」という。これに対し、道端や盛り場、寺社の境内に店を設けて客に茶や菓子を出し、床几で休息させた掛け茶屋を「茶屋、茶亭、茶店」といった。室町時代、道端で行商人などに茶を提供した商いから始まり、江戸になって若い茶屋娘を置いて、茶に付加価値をつけて提供したのを「水茶屋」「出茶屋」と呼んだ。娘たちのグレードによって、一杯の茶は、10文、50文と値上がりしていった。昔あった美人喫茶の類いである。江戸時代も中期になると旅行ブームとなる。五街道を中心に旅行者用に宿泊(旅籠)や休息(茶屋)が普及していった。こうした元々街道筋の宿場や峠の前後に発展していった茶屋が、町中にも作られていった。茶屋が派生した業態として、寛政期の初期(1789~)頃から発生、高級料理を提供し、会合の席として利用された八百半などの「料理茶屋」や「待合茶屋」がある。また、遊郭、花街、芝居街を対象とした「引手茶屋」「出会茶屋」「芝居茶屋」などがあった。また、明暦の大火以降、復興事業に働く職人や労働者たちを対象とした「煮売り茶屋」が誕生、これは次第に居酒屋(縄暖廉)に変化、発展をしていく事になる。

 <江戸紫>江戸を象徴する色、江戸紫の原料はムラサキ草の根である。真の濃紫は黒色に近く「京紫」という。朝廷では一位の袍色として禁色であり染めも難しかった。八代吉宗は吹上御宛で古色とは異なる新しい紫を染めだした。これが江戸紫である。(守貞漫稿)はいう「今世は京染(古色)を賞せず、江戸紫を賞す、江戸紫は藍がちなり」この江戸紫が流行るきっかけになったのは、二代目団十郎の歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」である。助六の衣装は黒羽重の小袖に、紅絹裏、紫縮緬の鉢巻を結び、桐柾のくり抜き下駄といったいでたちで花道に登場、御廉内から河東節で「この鉢巻はぁ~」の浄瑠璃が入り、成田屋の荒事が演じられた。助六と揚巻の活躍の場は、浅草新吉原の仲之町通りである。「助六は 日本一の 頭痛もち」紫の染料には薬効成分があると信じられ、殿様など身分の高い者が病気になると、これを締め回復を願ったとされる。江戸庶民はこうした高い鉢巻も金銭も持ち合わせも無かった為、もっぱら神頼み、近くの神社から貰って来た御札を可愛いい神棚か、冬場の風邪除けならタタキ(入り口)の上に貼り、我が家への侵入を防いだ。それでも駄目なら、安い薬から薬効のありそうな薬へ飲み換え、最後は薮にすがる事になった。現在では、この江戸紫、歩いている人間からは余り御目に掛かからなくなったが、下町なら夜になるとスカイツリーが、江戸紫と隅田ブルーの二本立てでもてなしてくれる。

 <錦絵>世の中の風俗を描いた絵一般を浮世絵といい、版画のものと肉筆のものとがある。錦絵は浮世絵の一種で、多色摺りの版画の事を錦絵と呼んでいる。広重や北斎の風景画、鈴木春信の明和三美人に代表される美人画、写楽の役者絵などがそれにあたる。錦絵は奉書紙を使い中間色を上手く表現出来るように、顔料には胡粉を入れ、版木には彫り易い櫻や朴が使われた。ひとつの作品が出来上がるまでには、版元、絵師、彫師、摺師の連携プレーが必要とされ、大成された傑作が生まれていった。江戸土産は軽くて嵩張らないのがいい。しかもばらまき用であるため値段の張らないものがいい。しかし、値段を抑えてばかりいると、やはりそれなりになる為、その辺の兼ねあいが難しい。その土地の印象が少ないものは、もらう人も喜ばない。これらの条件を満たしているのが、浮世絵などの出版物であった。江戸の名所や歌舞伎役者の絵柄を描いたものが良く売れ、値段もかけ蕎麦二杯程度と手頃であった。軽い浅草海苔も同様の人気商品で、観音様のお参りのついでに買い求められた。

 <浅草海苔>は、ウラケノリ科アマノリ属に分類され「ノリ」「アマノリ」の地方名でもある。冬から春にかけて、内湾や河口のヨシやヒビと呼ばれる木々の間に付着、江戸初期の頃は浅草辺りで採れたので浅草海苔と呼ばれた。我が国での食生は飛鳥、奈良時代にさかのぼり、仏教伝来によって殺生が禁じられる様になり、海苔が貴重な食材になっていった。江戸時代に入り、浅草から葛西へ、更に芝、大森、品川に海苔場を移した漁民たちは、摘んだ海苔を良く洗い、細かく砕いてペースト状にして、19×21cm枠の漉き型にすくい取り、天日に干す。この場合大事なのは、表側から干すと海苔が反り返り商品とならない為、裏側(すのこ側)から干し、水分を除き形を整えた上で裏返し(正確にいうと表返し)をして仕上げた、 この製法は浅草紙と同じである。因みに「冷やかす」という言葉があるが、これは紙を作る職人が原料の熱く解けた浅草紙が冷えるまで、近くの新吉原まで女郎たちを見てからかうだけで帰って来たことから出た言葉である。今でいうウインドショピングである。ただ見るだけで買ったつもりで貯金していた可能性も、現在と通ずるものがある。「浅草海苔」は北海道西南部など日本各地の沿岸で養殖されてきたが、地球温暖化による海水温度の上昇や、異常に繁殖した魚たちの餌にされたりして、今では絶滅危惧種となり、代わって黒くて艶のあるナラワスサビ種が使われている。




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