江戸名物③火事・中っ腹・江戸小紋・江戸顔

 

 <火事>江戸時代を通して、大火と呼ばれる火災は97件(東京市稿)約2.7年に1回の割合いで発生した。冬は北西の風が、春先は南西の風が江戸の街を吹きあれ、行燈の火、たき火の不始末、煙管の吸殻、はてまた付け火など、火種は沢山転がっていた。「火事と喧嘩は江戸の華 そのまた華は江戸火消し」江戸での三大イケメンといえば、八丁堀の旦那と相撲取り、そして今回の火消しであった。江戸消防組織は「大名火消し」に「定火消し」そして、八代吉宗の下で町奉行を担当した大岡忠相が組織した「町火消し」である。町火消しは「いろは四十八組」「深川十六組」水不足と貧しい消火設備のため、消火活動はもっぱら破壊活動、燃える物があるから燃え拡がるという理論から、延焼防止を目的に、燃えるものを平坦にして空気の流通を遮断した。もっとも江戸庶民の住まいは、九尺二間の棟割長屋、木と紙と土で造られた風通しのいい家屋であったため、その辺の軒先に荒縄でも掛けてあらよっと引けば、家は立方体から平面体に姿を変えた。活躍する人間は高い処で働く機会の多い鳶職、町奉行配下の与力同心の指揮の下、頭巾をかぶり草鞋をはいて手には長さ1尺半程度の鳶口を持つのが定番であった。幕末、江戸幕府は町火消したちを兵隊に編成した。フランス軍による軍事訓練をして備えたが、実戦に出ることなく明治維新をむかえた。仮に戦場に駆り出されてれいたら、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は、江戸での彰義隊の戦い、激しかった会津戦争、五稜郭の戦いなど一連の負け戦で、戦死されたであろうと思うと参加せずに幸いであった。明治3年、町火消しは消防隊となり、火消し改め消防夫として半官半民の身分となった。大東亜戦争でのB29の空襲に備える為、警防団から消防団に組織替え「自分たちの町は自分たちで守る」という、江戸の時代からの精神を受け継いでいる。

 <中っ腹>広辞苑には、腹をたてやすい気性とある。気が短く威勢が良いことを指す。男なら勇み肌、女なら伝法肌の人間であろうか。向う見ずで短気で空威張りして、宵越しの銭は持たねぇのが、江戸っ子の代表のようなイメージが、特に落語の世界では作られているが、それは一部の人たちのイメージであり、江戸人と云われた人たちは、毎日の仕事を大事にし、利幅はそこそこに物を売り、いい物を作って周りから喜ばれた人間たちであった。たいした余裕もないくせに、それでも自分たちより困っている人たちを見ると、親切心のちょっかいをかけたくなる、心のゆとりをもっていた。そうした毎日の生活の中でも、長い物には巻かれたくない、体制には批判的で誰かが右といえば、無意識に左へ向いてしまうDNAが、体の片隅に潜んでいたのが、本来の江戸っ子たちであった。江戸っ子たちの最大公約数は、ひとつ、目の前の人を仏の化身と見る。ふたつ、時泥棒をしない。みっつ、肩書を気にしない。よっつ、いつも遊び心を持っている。さて、皆様はいくつ該当するだろうか。米国人医師JBシュネルツェンは「江戸っ子とは、進歩的な人間主義者で、和を持って良しとなし、誰とでも付き合い、新人をいびらず、権威にこびず、人の非をつく時は、下を責めず上をつき、外を飾らず中身を濃く、という思想を持った人々である」としている。さあ、こうまで云われると、問われて反省するもおこがましいが、現代人も彼の評価に少しでも心底近づきたいものである。

 <江戸小紋>着物全体に細かい模様が入っている事が名称の由来だとされ、武士の家紋(大紋)に対し、小紋という呼び方が生れたとされる。訪問着や留袖が肩の方が上になる様に、模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく、模様が入っているのが特徴である。江戸期大名間の模様付けが派手になり、幕府はこれを規制した。大名たちはこれに対し色々知恵を絞った結果、遠くから見た場合、模様が無地に見えるように工夫した。結果、高度な染色技術を必要となっていった。代表的な柄は「鮫」「行儀」「角通し」これらをまとめて三役という。武士たちが着用した「定め小紋」は柄の大きさが6段階あり、殿様に一番近い者が、無地に見える最も細かい柄を着用、以下身分が低くなり席順も遠くなればなる程、柄も大きくなっていった。一方、庶民も野菜や鳥など生活に身近い素材を材料にして、型紙を使って染め上げ、お洒落を楽しんだ。他に江戸庶民が楽しんだ柄には「いわれ小紋」もあった。例えば、波に帆かけ舟の模様は「順風満帆」、大根とおろし金といったチョイと変わった柄は、素直に見れば大根を下す、転じて芝居でいえば大根役者を下す、更に転じて我が身になると、役=厄(やく)落とし、厄除けに繋がった。江戸に住む人間たちは物事を楽しむため、自分の生活、身体の健康志向には、常にアイデアを膨らませていた。一方生糸のみで織られた絹織物とは異なり、節が多く独自の風合いをもつ着尺に「紬」がある。真綿を原料にそれを手で紡いだ「つむぎ糸」によって織られた織物である。養蚕業における廃物利用によって生産された織物である。江戸時代は繊維製品は高く品数も少なかった。為に庶民は木綿素材、しかも一生のうち新調は、生れた時、結婚式、運が良ければ老後に子供たちからと2~3回程度で、普段はもっぱら柳原土手の古着屋、それを何度も洗い張りして仕立て直しして、継ぎはぎしてとことん着た。その後は我が子か嫁の子のおしめ、それも崩れれると雑巾、それも絞れなくなると竃(かまど)の燃料、灰となってまた田畑に還元された。やがて、立派な綿の木が育っていった。

 <江戸顔>江戸っ子の代表的な顔は、全体的に平たくて凹凸の少ない顔である。大体が円顔で頬骨が高く、エラ(顎)が張っている。また、目と目の間が広く(従ってたて皺は寄りにくいから苦味走った顔にはならない、逆に円満な顔に見られる)目は一重が多く、多少上に吊るか、下に下がる垂れ目である。鼻は短く低く安定感があるが、風邪を引いた時は鼻がかみにくい。今回のようにコロナに出喰わしたら大変である。常にマスク着用を強いられ、呼吸困難になるのは必定であった。また、鼻の穴は正面から見ても、はっきり丸く見えるから、かなり上を向いている事になる。空気の流通はいいがゴミも入りやすい。口の中に生えている上の歯は、多少上側に反っているため、上唇もそれに沿って上に膨らみ、常に誰かに文句をいっているように見える。これが中っ腹と云われる由縁であるうか。本人の腹の内はいたってピュア、純真なのであるが。対し、将軍様的顔は、初代の家康を除き、総じて長顔であるが、額は広く顎が小さい。エラが小さいと云う事は、普段柔らかい物ばかり食べているとこの手の顔になる。骨抜きした脂抜きしたフレークのような、目黒の秋刀魚もどきを食べているとこうなる。顔が長い結果、鼻も小さく長いから一見上品に見える。目は横に長く垂れ目的であるから人間が柔和に見える。この点も得をしている。さて、皆様のお顔はどちら派であろうか。大人になったら、自分の顔は自分の責任で、自分で造りあげていくものであると、昔の人は云っている。


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