2 ふたつの江戸の町「下町vs山の手」

 江戸の町は「明暦の大火」以降、人口も増え地理的にも拡大、「大江戸」へと拡大していった。それまでは生活の面でも、文化の面でも上方風に影響され依存してきたが、次第に独自の江戸的生き方、考え方、やり方(作法)が芽生え、上方風を抑え追い抜き追い越し、江戸文化=「江戸前」が開花、定着していった。こうした江戸らしい生き方、考え方ををもった「江戸人、江戸っ子」たちが誕生、江戸の町で生活を始めた。

 天正18年(1590)入府、城造りより町作りを優先させた家康は、江戸の東側の低地を埋め立て町屋を形成、併せて武蔵野台地の末端に位置していた「日比谷入江」を埋め立て、大名小路を造成、武家屋敷を配していった。この東側の埋め立てられた低地地域が後に「御城下町(下町)」と呼ばれ、御城の背後の台地の地域が「山の手」と呼ばれるようになる。江戸の地勢は西北部が高く台地になっている一方で、東南部は低地となっている。低地の御城下町から西北の大地を見上げると、山のように見えるので山の手と呼ぶようになったという。道灌山、上野山、愛宕山などの地名は、台地を山と呼んだ名残である。この台地に神田川、日本橋川などが枝状に流れ、谷をえぐって駿河台、白金台などの小さな台地を形成していった。山の手に坂や谷のつく町名が多いのはこうした事情による。江戸時代、目的地に辿る方法として、山の手では「坂」、下町では「橋」を目標にすればいいとされてきた。下町とは、文政年間(1818~29)幕府が編纂した「御府内備考」に載せられた言葉である。「按ずるに下町は、御城下町と称せる略なるべし」つまり御城の下の町だから、御城下町と呼んだのである。江戸の下町の範囲は概して神田、日本橋、京橋である。もう少し具体的に云えば、日本橋より数町四方、東は両国橋、西は外濠、南は新橋、北は筋違橋、神田川と「江戸府内絵本風俗往来」は記している。浅草の人間が日本橋辺りに来るのは「江戸へ行く、江戸へ出る」と称したが、江戸後期から明治にかけ、下谷、浅草も下町に含まれる様になり、深川、本所、向島の川向うが含まれる様になるのはその後である。所謂、下町情緒というものが生まれる基盤はこの辺にあった。現在では、葛飾柴又辺りが、下町情緒、人情を残す代表的な町だと考えられている。一方、「海の手」に対する「山の手」は、山の里、坂道の多い地域からこう呼ばれる様になった。幕末の書「江戸自慢」には具体的に「赤坂、四谷、市谷、牛込、小石川などは、坂道が多い故、山の手と唱ふ」と記されている。また「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴によれば、「山の手の範囲は四谷、青山、小石川、駒込、本郷辺りを山の手と唱え」現在の港、文京、新宿の各区辺りであった。明治に入ってもこの構図は余り変わらなかったが、震災、戦災を契機に一気に拡大、中野、杉並、世田谷、目黒と西南へ拡大、都区部を越えて拡大していった。

 「山の手は喰はず 下町はまだ聞かず」この川柳は江戸の初夏を題材にした句である。下町の江戸っ子たちが、少々無理をして既に食べている初鰹を、「山の手の連中はまだ食べてねぇだろうし、不如帰の鳴き声は田舍だからもう聞いただろう」と明らかに山の手に住む人間たちを少々小馬鹿にして詠んだ川柳である。また、山東京伝は「目と耳はただだが、口は高くつく」と唱している。これも素堂の「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」を踏まえての論評である。江戸下町の人間たちは金は無くとも、季節感を味わうといえば聞こえはいいが、あくまでも本人たちの「見栄と虚栄」の為、女房の嫁入り道具をこっそり質に入れて、金を借りてでも食べたが、山の手の人間たちは、その様な無計画な、無駄と思える行為はしなかった。先祖代々の俸録が決まっていた武士階級や、高い年貢を課せられていた農民層の人間たちにしてみれば、そのような無計画な金の使い方はとてもじゃないが、付き合いかねたのである。更に、両者の金銭感覚を追ってみると、天明8年(1788)の銭相場は「飯田町、麹町より始め市谷、四谷、赤坂辺りは、「山の手相場」と申し候て下町よりは少しずついつでも高値に候由」と「よしの冊子」は記している。現在でも下町商店街が比較的に安い価格で商品を提供しているのに対し、同じ商品でも山の手は1割程御高いのは、この流れを汲んでいるものと思われる。また、「流行(はやり)」に関しても、当初山の手に住む武士たちが「通」として流行りの担い手であったが、中期以降、ご先祖さま以来何代も据え置かれたままの俸給に比べ、札差商人に代表されるように経済力をつけた商人たちが「山の手は やっと追いつく 流行り歌」と詠まれるように、その立場は逆転していった。更に「武士は食わねど高楊枝」と、食べたふりをするまでになり、食べることが先で、流行りを追いかける環境ではなかった。こうして物価高騰による慢性的インフレにあえいだ武士集団は無駄を省き倹約する、専守防衛の他に取る道はなかったのである。

 東京生まれの者の間には、山の手と下町に住んでいる人たちの間に融和し難い感情の垣根があると云う。山の手の人たちは下町の人たちを「町の人たち」と呼び、逆に下町の人たちは「のて」と山の手の人間を呼んだ。「のて」とは「山の手」という言葉をつぼめ、好意的ではなくその言葉の裏には「野暮」という意味が込められていた。明治の東京人は山の手の武家地を乗っ取った薩長を「のて」といって馬鹿にした。従って「のて」とは正しくは田舎者の成り上がりを意味したのである。江戸埋立て地に成長した江戸っ子たちは、概して商売人か職人、江戸の町を定期的に襲った火事の為、また、庶民の八割を占めた間借り人立場であった為、家財や宵越しの銭を持つ事はなかった。加えて育った環境には祭り、芝居、悪所、四季折々の物見遊山と人生を楽しむ場所、要因には事欠かなかった。こうした環境に育った江戸っ子たちは、ざっくばらんで淡泊な性格となり、義理堅く律儀で人情があり、多少任侠肌で損得なしで人に接するが、繊細さに欠けおっちょこちょいの一面があった。同時に気難しい処もあり、一度気に喰わないと口もきかない事もあり、勿論、世辞はめったにいわない。そんなものを云ったら損だと思っていた。下町江戸っ子たちは、こうした江戸っ子気質をもっていた。こうした下町人間に対し、山の手に成長した江戸っ子たちは、学問を好み質実剛健といえば聞こえはいいが、下町人間が「粋」であったのに対し、どちらかというと「野暮天」であった。また、考え方も下町が進取の気性に富み革新的で、新し物好きだが飽きっぽいのに比べ、保守的でありすぐには決まらなかったが、決めたら長続きをした。町屋や商家が密集、路地裏に植え木鉢が並び、夫婦喧嘩の声や子供たちの泣き声が、九尺二間の住まいから聞こえてきそうな下町、木立が多く太陽が一日中ふりそそぎ、花々と鳥の鳴き声が四季を感じさせるのどかな山の手。どちらの地域にも江戸しぐさを持ち合わせた、優しい人間たちが住んでいた。江戸の町はどちらにも住んでみたい、魅力的な町であった。





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