18 豊太閤夢の跡
元和元年(1615)1月末には大坂城惣構えの埋立が完了し、この戦いは一件落着かに見えたが、再度豊臣方が不穏な動きを見せ始めた。城内に米や材木が蓄えられ、牢人たちも退去せずむしろ数を増やしていった。これを見た家康は、再度 ①秀頼母子は城を明け渡し、大和か伊勢に知行替えをすること ②仮に城に留まりたいのであれば、牢人たちを放ち元の家中の者だけで留まること と通告した。大坂入城を所領回復の最後の望みとしながらも、終始内部分裂を繰り返している牢人たちから、通告を受け入れる意思決定を受け取る事は不可能であった。結局、①も➁も秀頼母子は拒絶してきた。豊臣方は長期戦に持ち込み、加勢する大名の蜂起を期待しようとしたが、城も裸にされ、昨年11月には木津川川口を占領されるに至って、長期戦に持ち込む戦略は頓挫した。家康は大坂の米売買を禁止、同時に商人たちが商用で大坂へ出向く事も禁止した。4月4日、家康は九男義直の婚儀を祝うという名目で西上、名古屋から更に西に進み、6日に伊勢、美濃、三河の諸大名に対し攻撃命令を出した。翌7日には全国の大名たちにも攻撃命令をだした。これら合戦に伴う負担は各藩とも重たかったが、出陣要請を断る事はお家断絶を意味していた。巷では夏の陣が始まるとの風聞が流れ、堺辺りでは人びとは妻子を伴い家財を運び、他国へ逃げ出すという有様であった。15日家康は二条城に入り秀忠を待った。この間、全国の大名たちも出陣してきたので、京、大坂周辺は人馬であふれていた。22日軍議、家康、秀忠率いる約12万の軍勢は、淀川左岸を南下河内を経由して大坂城へ向かうコースを取った。一方。、松平忠輝が率いる約3万5千の軍勢は、大和を経由大坂城へ向かうことに決定した。これら二隊は城から5里離れた道明寺(藤井寺)に集結、一気に豊臣方を攻略する作戦である。25日軍事活動が開始された。井伊直政、松平忠直隊は河内に出陣、藤堂高虎隊は淀に出陣した。対し秀頼母子を支援したのは、淀君乳母大蔵卿の息子大野治長、秀頼乳母右京太夫の息子木村重成、信長弟織田有楽斎、他に50万石の加増を約束された真田信繁(幸村)、土佐一国を約束された長曾我部盛親、塙直之、後藤基次、明石掃部などであり、堀が埋立られている以上討って出る他勝ち目がなかった。夏の陣が始まる頃、有楽斎が大坂城を去っていった。また、幸村や他の武将たちも、内部分裂からくる豊臣家の危うさを感じていた。
幸村は冬の陣の際、大坂城の南の惣構えに砦=「真田丸」を築いた。大坂城は北、西、東を河川や湿地帯が囲む天然の要害であったが、南に面する地域だけが平坦な上野台地であった。これを知った幸村はここに南北280m、東西230mの要塞を築いた。これを入城後わずか1ヶ月で完成させた。秀吉の頃、この地は寺町や家臣の屋敷地であった。寺町は有事の際防衛施設ともなるため、秀吉はそれを見越して街造りをした。幸村はそれらの敷地をつないで砦を造ったため、従来信じられていた「半円形」ではなく「四角い形」をしており、「主郭」と「出丸」に分かれた複雑な構造になっていた。単なる「丸馬出し」ではなかった。主郭の北側に設けられた「出丸」は真田丸と大坂城惣構えとを結んだ「心眼寺坂」を守り、砦の背後から攻めようとする敵に備えた曲輪であつた。更に主郭と出丸の間にも堀切を入れ、出丸が万が一陥落しても、主郭のみで防衛可能なように縄張りがされていた。もう少し加えると、真田丸の位置は大坂城惣構の南東隅、仮に徳川軍が城惣構の南中央を突こうとすれば、それを側面から迎撃できる絶妙な位置に築かれていた。徳川軍が城に入るためには、先ず真田丸を潰さなければならなかつた。その上で幸村は意図的に徳川軍を挑発、それにのった徳川軍は計略にはまり大打撃を受けた。幸村は先ず堀外に「まきびし」をまき敵の足を止め火縄銃の有効射程距離を生かして一斉射撃、また、更に空堀内にも柵を巡らせ、濠底を敵が自由に進むことを阻止、そこでとどまった処で狙い撃ちをするという、数段の構えで大坂城を防備した。
5月堺、岸和田方面における戦いで塙直之が討ち死に、道明寺(藤井寺)方面で後藤基次(又兵衛)、薄田兼相が、若江では木村重成が討ち死にした。天王寺岡山では幸村が3千の軍を率いて、3度にわたり家康の本陣を突撃し、護る松平忠直隊の陣営を切り開いた。家康は旗本たちとちりじりになり、もうこれまでと切腹まで考えたというが、忠直の軍勢が駆けつけ危機を脱したという。当時の記録によると形勢的には勢力は拮抗し、五分と五分の戦いであったが、結果的には徳川軍の兵力が勝っていたため、家康は死を免れ勝利を得る事が出来た。しかし、家康についてはもう一つの説があり、家康は駕籠に乗って逃げる途中で、又兵衛の槍に突かれて死亡したとも云われている。これらの諸説は当時の日記や手紙など一級資料が皆無であるため、またその説自体も論理が飛躍している事から成り立つ物ではないとされているが、物語を語る上では面白い。こうして有力武将を相次いで失っていった豊臣方は滅亡の道を進んでいった。 <チーム江戸 了>
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