18大坂冬の陣・夏の陣 ➁豊臣家の勝算

 <豊臣家の勝算>義演准后日記によると、朝廷は秀頼を関白に、秀忠を将軍にと想定、関白と将軍は併存できると認識していた。位的には関白の方がはるかに上で、秀頼はいつ関白になってもおかしくない存在であった。オランダ東インド会社の日記には「今は事情があって皇帝の位には就いていないが、秀頼こそが日本の正当な皇帝であり、多くの大名たちや民衆がそれを望んでいるので、将来秀頼が皇帝になる可能性は高い」と記している。それに加えて秀頼の優位性は家康との年齢差にあった。大坂冬の陣・夏の陣の時点で秀頼は22歳、家康は73歳、半世紀程の年齢差があった。信玄、謙信、信長の例をとるまでもなく、一人のカリスマが倒れれば、その権力は崩壊した時代である。関ヶ原の戦い以降、家康というカリスマがいてこその徳川幕府であった。二代目秀忠の力量がまだ未知数である上に、秀忠がもつ堅実ではあるが地味性に比べ、民衆の間で絶対的支持の高い秀頼の存在は、家康にとって懸案中の懸案事項であった。イエズス会の宣教師も、大坂冬の陣・夏の陣について「高齢の家康は間もなく死ぬであろうが、そうなると秀忠は諸侯の間で嫌われているので、徳川幕府も滅びるであろう」と記し、「その時は秀頼が支配者になる」としている。また、聖ドミニカ会の宣教師も「息子秀忠に任せきれず家康がわざわざ大坂まで出陣してきたのは、秀忠ならば戦況が不利になった途端に、諸大名たちは豊臣方に寝返る事を家康は知っていたからである。仮に家康が出陣していなければ、秀忠が王座につけない事は確実である」としている。慶長16年(1611)家康は二条城で秀頼と会見、祖父浅井長政を思わせる偉丈夫な体格のいい青年を見て、加えて秀頼に対する京都市民の熱狂的な歓迎ぶりを見て、自分が死ぬ前に秀頼を滅ぼし、豊臣政権を崩壊させておかないと、徳川家の存続はないと感じた。そこで残りの人生をかけてこの問題の早期解決を狙ったのが、難癖ともいわれる「方広寺鐘名事件」である。

 <大坂冬の陣>武力衝突のきっかけになった天台宗方広寺は、京都市東山区茶屋町にあり、通称「大仏殿」「京都大仏」と呼ばれている。天正14年(1586)秀吉の発願により同17年に完成、開山は真言宗の木喰応其、大仏殿は文禄4年(1595)完成、漆と金箔で彩色された木造毘盧遮那仏が安置された。慶長元年(1596)慶長大地震で大仏殿は倒壊、同3年秀吉没、秀頼は再建に着色するが失火により焼失、同14年、秀頼は再々建に臨み19年にやっと完成された。この一連の工事で秀吉が蓄えた金銀の多くが消えた。慶長19年8月2日に開眼供養が行われることになった。ここで家康側はクレームを入れた。国の政治が安定しているという本来の意味「国家安康」と、万民が豊かで楽しい生活を意味する「君臣豊楽」の二つの文言が、家康をないがしろにして、豊臣家の繁栄を望んでいると解釈できると、供養を中止させ、片桐且元を駿府に呼びつけた。待たされるだけで何の明確な指示がないまま大坂城に戻った且元は、家康側が望んでいるであろう解決策を秀頼母子に伝えた。且元の後から家康に会った淀君の乳母大蔵卿などには「何の心配も要らぬ」と和やかに面談をした。この辺りがタヌキ親父たる所以である。双方に異なる情報を提供して相手方を混乱させ貶めるという高等手段である。いいように操られた且元は、生命の危険を感じて大坂城から退去した。豊臣側が兵糧を備蓄、浪人たちを城に集めているなどを理由に、家康は秀頼母子を討つ命令を下した。

 慶長19年(1614)6月、家康はイギリスから大量の大砲、火薬、鉛などを購入した。イギリスの死の商人たちは、豊臣方にも同じような商売をした。家康の目的は、勿論合戦を意識したものであり、そのターゲットは豊臣家である。また、これに併行して毛利、島津、鍋島ら西国大名たちに起請文を送った。①家康、秀忠に別心、表裏がないこと ②上意=将軍に背く輩とは通じないこと ③幕府の定めた法度に背かないこと。この起請文に約50家が応じた。つまり、豊臣方に味方する大名は皆無で、大坂城の主力部隊は諸国から集まってきた浪人たちであった。それでも秀頼は島津家久に支援の要請を送った。家久は豊臣家への奉公はすでに終り、家康に対抗する気持ちはないと大野治長に伝えた。関ヶ原で苦い苦しい戦いを強いられた経験から、二度と同じ轍を踏みたくはなかった。秀頼は福島正則にも何度か面会を求めた。しかし正則は応じなかった。この時点で正則が内応していれば、諸大名たちに及ぼす影響は大きかった筈である。この時代、己の家の存続、家臣たちの存命を賭けて安全確実な選択をする、それがその家を支配する諸大名たちの務めであり、共通した認識であった。豊臣家は恩顧の大名たちから、完全に見捨てられたのである。

 11月19日、木津川口の戦いが始まった。木津川口は大坂湾の西側に位置、かって信長と石山本願寺が戦い、本願寺への物資の搬入をめぐって、毛利水軍、村上水軍が織田方の水軍と烈しく戦った戦場であった。(江戸瓦版HP、瀬戸内の海賊たちを参照)冬の陣では豊臣側は約800の軍勢で守備したがたった1日で敗退、重要拠点を失い戦略を野外戦から籠城戦に切り替えた。城には戦いで日銭を稼ぎ任官を狙った、10万(一説では19万人)近くの牢人が集まった。しかし、徳川方の大名たちは、忠誠心の薄い人間たちがいくら集まっても勝利には結びつかないであろうと確信していた。秀頼淀君母子は大坂城の奥に住み、家康からの和睦交渉を拒み続けていた。12月17日、水面下での和睦交渉が始まったが、まだ小競り合いが続いていた。こうした状況を打破しようとして、家康は16日から19日にかけイギリスから購入した大砲で昼夜を問わず大坂城を砲撃した。城内を熟知している且元の指示で稲富正直は狙いを定めた。その砲弾は淀君の居間の櫓を撃ち崩し、側にいた侍女たち数人が即死した。それを眼前に見た淀君は気が転倒した。幼いころ小谷城で父を亡くし、北ノ庄では養父と母を亡く、幼い妹たちを連れて逃げ出したあの記憶が蘇った。即、和睦の交渉に入るように指示した。徳川方から交渉に臨んだのは、阿茶局と本多正純、豊臣方は淀君の妹常高院たち、交渉の要件は ①本丸を残して二の丸、三の丸の堀を埋めること ②織田有楽斎、大野治長が人質を出すことであった。21日には茶臼山で和睦条件が取り交わされた。大坂城は惣構は瞬くのうちに埋め立てられ、秀吉が築き惣構によって強固な防御力を誇っていた堅固な大坂城は裸の城と化した。


 

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